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Rotary2月号

 

再生力が生き残る鍵

 

昨年はとてもひどい有様でした。しかしトラウマを克服するツールを私達は生まれつき持っていたのです。

 

ローレンス・ゴンザレス

 

何年も前ある朝、腕を上げシャツを着ようとして天井ファンの回転羽に手を突っ込んでしまいました。痛みに耐えかね大声を上げ、身もだえして床に倒れました。手を見ればもう傷の痕跡はありません。それでもトラウマは残ったままです。今日までシャツを着るために腕を上げる場合はいつも、見上げて回っているファンがないかチェックしています。妻はそんな私を笑います。「そこにファンはないわ。」しかし思わず反射的にそうします。

記憶のオートマティック・システムは、無意識に最良を意図すべき領域外で機能します。トラウマを抱えた兵士が家へ戻って気づくように、そういったレスポンスが私たちの意志に反して起こります。そしてコロナが終息し平穏な生活に戻ろうとしても、もはや存在しないと分かった時、グローバルなパンデミックにトラウマを受けた人々は、こういった現象に気づくことになりそうです。
11月末日までに、COVID-19によりアメリカでは25万人以上が命を失いました。

ベトナム戦争全期間に渡って、約
5万8千人が亡くなっています。このパンデミックはある意味戦争であり、人々は様々な形でトラウマを受けています。優れた記憶システムはトラウマを経験すると、この出来事とつながる重要な全てを記録することに取り掛かります。1983年にパトリシア・バン・タイエムという名のヒッチハイカーが、灰色グマに襲撃されました。彼女は襲われる直前に、その匂いが好きで松葉を揉んでいます。

しかし病院から戻った後、松葉の匂いで彼女はパニックになりました。恐怖で気分が悪くなったのです。家にいれば安全だという安心感は、助けになりませんでした。彼女の反応は反射的で必然的であり、それを乗り越えて自身をコントロールできなかったのです。世界貿易センタービルがくずれ落ちた日にニューヨークに居合わせた多くの人々は、秋の澄みきった青空が不安にさせることに気づきました。それが
2001年9月11日と同じ天候であることで。晴れた秋空は、別の攻撃が襲来することにはなりません。

しかし、あたかも私たちの記憶システムのおかげで、将来が過去と同じになると伝えているように感じさせるのです。襲撃下にいる場合、全ての哺乳動物は怒り回路として知られている脳神経系を活性化します。それを行動の中で見るのは簡単です。偶然猫の尻尾を踏みつけたとします。そうすれば、叫び声を聞き、むき出しの爪や歯、喰いしばったあご、つまり戦闘態勢をそこに見るでしょう。私は天井ファンに手を突っ込んだ後、きっとほとんど同じ反応に見えたはずです。進化とともに、このレスポンスは攻撃を回避することに役立つと分かってきました。

したがってこういった特性は引き継がれてきたのです。またバン・タイエムにとって松の匂いが熊の攻撃に伴ったのなら、最も安全な反応経過は、松の臭いをかいだときはいつでも感情回路である怒り回路を活性化させることでした。この外見上不合理な反応は、精神科医が外傷後ストレス障害、
PTSDと呼ぶ明瞭な事例です。障害という言葉には抵抗を覚えます。何故ならその現実の反応は私たちを守る必要に迫られて記憶システムが作動したことを示しているからです。誰でもトラウマを受けます。

ブッダが言ったように、それは日常生活の一部です。彼が最初に悟った崇高な真実は、ストレスと苦痛の遍在に関連していました。また、私が回転羽を避けるといった些細のものから、バン・タイエムが松の匂いに反応するといった狼狽させるものまで、反射的な行動形式に誰もが悩まされます。何人かの人は怒りに固まり、その感情回路は触発的引き金になります。どんなきっかけも怒り回路を誘発させ、同じように人によっても刺激を受けることで悩まされ、トラウマがとめどもなく襲い掛かります。

それでもトラウマを経験する人々は、再生に向けて自然なやり方を利用できます。例えばペットショップを訪れることによって、私たちの本質や精神的生活に洞察力を獲得できます。爬虫類を観察してみてください。進み方はとてもゆっくり。彼らは動かないことで無理なく自然に進化してきました。身を守る為の主な戦略は、水面下に潜り、じっとしていられるように新陳代謝を低下させることにあります。次に哺乳類を見てみましょう。彼らは遊んだり転んだり、ジムサイクルで運動しています。

哺乳類は本来動的存在です。捕食動物の攻撃は、飢えによって動機づけられます。例えばあなたを食べようとします。それは防衛本能のなせるわざで、自らのテリトリーに入れば攻撃してくるでしょう。しかし哺乳類は、攻撃に応じて予測可能なパターンに従う傾向があります。攻撃を予想できれば、それを回避するためにより高い次元の社会的振る舞いを使うことができるのです。子犬が大きな犬に出くわした場合、これを見ることができます。子犬は仰向けになり、おなかと首をさらし降伏のシグナルを示すことがあります。

もし攻撃され意志に反してじっとして動かないままでいれば、怒り回路は活発になります。そしてもがき叫び声を上げあがらうことが意味をなさないなら、先祖爬虫類の古代戦略に移ります。凍りついたように動きません。ただし動きを止めることは、爬虫類にとって自然である一方、哺乳類には危険になり得ます。そして一旦危険が過ぎれば経験したトラウマ後のストレス反応を増幅させます。今日神経科学は、脳が大きな知的コンピューターとして身体にあれこれ一方的に命じるという古くからの概念は、間違いだと伝えています。

脳と身体は相対的統一体です。そして身体が主要な役割を果たすという良き証拠があります。確かに日常生活の経験で、私達が直感と呼ぶものが、いかにほとんどの判断で決め手となるか容易に分かります。レストランへ行ったら、あなたが何を注文するか知る為に弁護士に電話しません。私たちは生活を通じてやり方を考えません。やり方を身体から感じるのです。したがって、私たちはトラウマに直面したら再生力を高めるために身体をうまく使わなければなりません。睡眠では、気持ちの良い可動と不動の間の状態に入る能力があります。そしてもう一つ別の状態が可能です。

それは不動を促進する神経系と可動を促進する神経系が繋がっている状態であり、遊びと称する外見上相反する状態を意味します。遊びは、学習、社会参加、体の内部状態を整える健康的手段の促進にとって不可欠です。赤ん坊に遊ぶことは教える必要はありません。そのスキルは自然に出現します。ジェフリー・ブルクドルフ
(ノースウェスタン大学生物医学工学教授)の率いる調査チームは、次のことを示しました。強制的に無秩序な遊びをさせられた実験動物は、逆境に直面した場合はっきりと再生力が上がることを証明したのです。遊びが抗うつ薬でありえることが分かったのです。


トラウマを経験した人々は、再生に自然な方法を利用することができます。猫の別の振る舞いでこれを見てみましょう。猫が獲物に忍び寄る場合、そっと目標に着実に近づいて完璧にやり遂げます。この過程で猫はワクワクしているはずです。怒りはここに存在する場所はありません。また、実際、怒り回路はワクワク回路と呼ばれる感情回路活性化によって沈黙させられます。哺乳類は怒りを好みません。したがって、彼らはそれを止めるために懸命に活動するでしょう。ワクワクすることは怒りへの解毒剤です。

また人間はワクワク回路を活性化する方法を見つけることが上手で、猫の忍び寄りの特徴を手本にした行動が役立つはずです。それは体系化、系統化され、直接的でなければなりません。多くの場合、それは規則的に繰り返す形をとり、なんらかの形でほとんどは身体に関わるものです。高名な小説家アン・フッドが急病により
5歳の娘を失った時、常に怒り、パニック、不安の心理状態に陥りました。

それでもふと、編み物がただ一つの対策であることに気づいたのです。そして悲嘆に暮れた当初、夢中になって時々
8時間も編み物に向かいました。トラウマに直面した場合再生力の鍵は、ワクワク回路を活性化し、怒り回路を沈黙させる方法を見つけることです。そういった活動の対象が編み物、ゴルフ、煉瓦積み、文筆、ヨガ、ランニング、ピアノ、瞑想、トラウマを受けた他の人々を援助することであった人達について書いてきました。

あるベトナム戦経験者を知っています。彼は世界を回ってフライフィッシュをしています。地球上に存在するあらゆるマスを調べ釣りあげる、それが内的平和を見出せる唯一の方法だからです。しかし、一人一人がそのアプローチの仕方が異なるのは勿論です。再生へ向かう方法に楽観的光景を描き、誰しもがそれを後追いできると示唆することは真実とはいえません。その一方トラウマを経験する多くの人々が今までどおり喜ばしく満足な生活様式を見出すことは可能なのです。

友人リゼット・ジョンソンの夫は、彼女を殺害しようとしました。至近距離でリゼットに数回銃を放ち、逃げる彼女の背中に再び銃撃を浴びせました。その後彼は自らの頭を打ち抜きましたが、からくもリゼットは生き残ったのです。彼女と
2人の子どもは時に絶望の中で、日々を苦しみに耐えていました。しかし再び自身を見つめ直し、トラウマを受けた他者を助ける活動で再生しました。犠牲者の代わりに救済者になることを選択したのです。

私は「回復」という言葉が好きではありません。リゼットは回復したのではなく、再生する力を学んだといえます。「とても悲惨な時を幾度か過ごしました。このことを背負ったままにするつもりはありません。それでもなお、私はとてもやりがいのある幸福な生活を送っています。今は最悪の日でさえ、過去の私よりずっと幸福です。」何百万もの人々が毎日様々な原因によってトラウマに傷つきます。ほとんどは、対処する方法を見つけられるでしょうし、できるはずです。そして再生の場に姿を現し、新しい生活を創成します。恐らく過去に残したものより更に豊かな恵みある生活を。必要に迫られる前に再生への道に取りかかれば、その時点であなたは既に最良の状態にいるのです。

 

ローレンス・ゴンザレスは『深層生存力;副題 生き残った人間、命を潰えた人間、そしてその理由』および続編『生き残り戦略;副題 再生力の技術と科学』の著者です。彼は、2016年から2020年までサンタフェ研究所の特命学識者でした。

 

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC


Rotary1月号
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Rotary誌1月号

時の論理

ずっと重要なものはどちらか。10周年記念あるいは42回目の例会? 勿論10周年ですよね

ジョー・クイーナン

今月はRotary誌発刊から110周年にあたる記念月です。まだ250歳でしかないこの国では、何にしても祝福すべきイベントであり、特別注目すべき偉業です。何故なら雑誌はその時代(古くはSpy, Collier’s, Crawdaddyといった雑誌)の映し鏡となるからで、時が過ぎれば生き残るのはまれです。タイム、スポーツ・イラストレーテッド、TVガイドは現存してはいても、もはや広く普及していません。

Rotary誌(最近までRotarianとして、それ以前はThe National Rotarianとして認知されていました。)は、今やサイエンティフィックアメリカン(創刊1845年)、ハーパー(同1850年)、アトランティック(1857年)、ヴォーグ(1892年)と同じ神話的カテゴリーにあります。同誌が最初に生まれた時、リーダーズ・ダイジェストは存在していませんでした。ニューヨーク・ヤンキースもそう。ニューメキシコとアリゾナは、まだ合衆国として認められず、商用ラジオ放送はその10年先のことです。

The National Rotarian誌が1911年1月に最初に発刊された時、タイタニック号はまさに巨大客船として海上に存在していました。記念日は人間の心に愛しく寄り添う対象となるものです。しかし特定の記念日を記述する場合、時に問題となる可能性があります。まずは最初に戻ってみましょう。2026年7月にアメリカ合衆国は250年目の建国日を祝います。それは公式にはsemiquincentennial(250周年祭)として公式に知られています。賑やかな出来事となることは確かです。

イベントの叙事詩的雄大さを与えつつ、250年に遡ってどこかの誰かが注目されそうなネーミングを思いついたのかもしれません。bicentennia(二百年祭)と同様にcentennia(百年祭)は素晴らしい名づけ方でした。発音が簡単で理解しやすく、どちらもある意味上質さを兼ね備えています。semiquincentennial(250年祭)はそのどちらとも言えません。余りにも長たらしく、綴り難く、意味も不可解です。いわゆる発音し難い以上のものがあるのです。一見したところ、「最初のトレイラートラックを買ってから5周年の記念」と変わらぬように見えます。

1974年に大成功を収めた作家ジェームズ・ミッチェナーが、『百年の祝い(邦題;遥かなる西部)』という有名な小説を発表しました。それは2500万ドルの予算をかけた豪華な21時間テレビ・ミニシリーズにもなったのです。25年後ロビン・ウィリアムスは、『二百歳の男(邦題アンドリューNDR114)』と題する1億ドルの映画に主演しました。これに似たことはsemiquincentennial(250年祭)にはひとつも起こらないでしょう。古代ラテン語は、現代英語では現金化されない小切手に書かれてきました。

皮肉を込めて言えば、古臭く不可解なsemiquincentennialはsesquipedalian(長くて重々しい)に似ています。この単語は同じく役立たないラテン語に基づいたものであり、自身を賢く見せようとして長々とした言葉を濫用する人物を言い表したものです。言いかえれば「自慢屋。」私は高校でラテン語を勉強しました。そして今日まで無条件にお気に入りの死語のままです。これから2026年の間にsemiquincentennialという言葉は普及しそうもなく、The Nifty Two-Fiftyと言った方が、はるかに良さそうに見えます。さて、あからさまに言わないにしても、結婚記念日という言葉には大いに惑わされます。数年前に42周年の結婚記念を祝うつもりと友達に伝え時、「それは何にあたるの。」と尋ねられました。

「ポリウレタン婚かな。」そう答えていました。よくは分からないまま、そうだろうと思いついたのです。というのも、3周年記念は革婚、6周年は鉄婚と言う訳ですから。男性は結婚記念日を忘れたことで、いつも非難されています。が、さて。革って?鉄って?10周年記念は(それはかなり重要な行事でしょうが。)錫婚として祝われます。「semiquincentennial」という魅力がない言葉と同様に、錫婚という言葉は結婚記念日の贈り物リストに載っていても、はっきりしないけだるい感覚になります。

ここで結婚記念日42年目に戻ります。疑いなく、銀婚記念日(25周年)は特別の名にふさわしい重要な行事であり、金婚(50周年)およびダイヤモンド婚(75周年)も同様です。しかし、何であれ42周年記念(結婚年数、ヴィクスバーグの包囲戦の戦闘日数、市会議員としての継続勤務年数)は、特別な名称に価するほどのものではなく、特定の鉱物、織物を冠するほどのものではありません。でも私にとっては「42周年記念」もあってしかるべきです。世間は記念日に中毒です。幾つかは価値があり、それ以外は嘘っぽく子供じみています。

高校の周年記念日が好例です。10年目の高校の同窓会が意味をなすとは思えません。10年ではこの世で多くを成し遂げるに十分な時間ではないからです。対照的に25周年では結果的に大したこともできない卒業生にさえ、スコアボードに若干の点数を与えかねません。そして50周年では外観が劇的に変わってしまい、誰がダサい奴だったか誰も分からなくなっています。そのような変遷は、短い期間になされることはありません。多くの外科手術でも受けない限りは。概して記念日を祝う場合、一般的か重要でない数は回避されるべきです。

記念日が0または5で終わらない場合、記念日にほとんど価しません。2,6,19,38といった超低空飛行の記念日は問題外です。レストランなら11周年、それより早い8周年を祝うことはあり得ません。8年と11年はマイルストーンを構成せず、真に重要な記念日間の通過エリアです。考えてみればそもそもマイルストーンであってマイルストーンの16分の5と言ったものではないのです。祝う価値がある以上、記念日は歴史的に認められる必要があります。

3年前高校時代のガレージ・バンド、フェーズシフト・ネットワークは、サウスジャージーのホールを借りて、皆で50周年を祝うために演奏パーティーを開きました。これはとても面白い試みでありながら、しっかりした下準備が必要でした。何故ならバンドは1968年に解散以来、2011年まで演奏していなかったのですから。劇場を揺らした50年間を祝うと宣言していた夜、実は高校の2年間とノスタルジアに熱狂したベビーブーマー世代として演奏した6年間を祝っていたのです。したがって、私たちにとっては真の50周年記念ではなく、むしろ8.5周年といったものでした。

その上オリジナルのドラマーは、その夜にはいませんでした。ビジネス関連の記念日に招待された時、人は変な数に慎重を期すべきです。雇主によって祝われる場合、これは特に真実です。長い知り合いの雑誌編集者が、45周年出版記念式に招待しました。45年は奇妙で、実に不思議な数です。彼にそう伝えました。仕事を仕切っている間の45周年を祝うという事実は、50周年にはいないつもりだということを強く示唆していました。でもそう旨くはいかず約6週間後に解雇されたのです。

彼はその事態が来るのを見るべきでした。記念日が厳粛さの気配を漂わすためには、明白な年代順の妥当性を持つ必要があります。誰かが「3月15日」、「5月5日」、「聖バレンタインデー」、「恥辱として刻まれる日」のような手近な用語を思いつけば、それは実際役に立ちます。一方デートはしても未婚のカップルは、時々5周年記念を祝うことがあります。しかし、この場合二人の関係がいつ始まったか正確に決めるために過去を辿ることが求められます。それは出会った夜か。共にピラテスの講習を最初に受講した日か。それとも二人がまとめて税務申告をし始めた日でしょうか。

そしてあなたが結婚し、詳細さに几帳面な相手が習慣的に記念日と称するものを祝い始める場合、その場しのぎだった5周年記念はどうなるでしょう。あなたの結婚7周年記念がウールなら、最初のブランチの7周年記念にはどんな織物を関連付けますか。更紗?コーデュロイ?モヘア織り?ポプリン?この場合結婚証明書は常に貴重なものとなります。うろ覚えのパートナーはごまかすかもしれませんが、ドキュメントは嘘をつきません。このテーマでどんな議論をしても、記念日を決める争いが必ず起こります。

アメリカ合衆国が1776年7月4日に生まれたことは間違いありません。このとき独立宣言はシティー・オブ・ブラザリー・ラブで採用されました。しかし、アメリカ独立戦争自体は1775年4月19日より15か月前に始まりました。このときコンコルドとレキシントンのベイステート村で、アメリカの入植者と英国軍隊で小競り合いがあったのです。潔癖主義者にとって、アメリカの独立はポール・リビアーの真夜中の騎行から始まります。スポーツ記念日は同じく面倒です。ニューヨーク・ジェッツは1969年1月12日に奇跡的に第3回スーパーボウルで勝利しました。

しかし、ジェッツが1969年のスーパーボウルで勝利したとあなたが声高に言えば、どこかの気難しいスポーツマニアは、第3回スーパーボウルは1968年レギュラーシーズンの最終ゲームだと修正を促すでしょう。ジェッツは1968年プロフットボール選手権を勝ち取ったと言う訳です。有名人の誕生や死はさらに扱いにくい問題を示します。こういったものはしばしば、PRの人気取りか、観光事業を押し上げるため企画されたマーケティングの仕掛けのように思えます。ボン市主催1770年生誕ルートヴィヒ・フォン・ベートーヴェン250周年記念式典には、理解ができます。

しかしラファエルの死から500周年忌を祝いたいと誰が思うでしょうか。シェークスピア誕生の日と亡くなった日の間には大きな違いがあります。最後に特別な日に起こったイベントのわざとらしい記念日のリストに関して一言。例えばゲティスバーグの戦いは1863年7月1日に始まりました。どうぞ、それを書き留めて結構です。1903年7月1日に最初のツール・ド・フランスでライダーはペダルを踏み込みました。よし、シャンペンをぶつけて祝おう。ところが2021年7月1日に政府はカナダとの互恵漁業協定締結後136周年記念を迎えます。こればかりは私にとって特別の記念日ではあり得ません。けじめをどこかにつければなりません。私は正にそこに線を引くつもりです。

 

ジョー・クイーナンはRotary誌への準定期寄稿者です。ここ2年間、クラシック音楽がどのように彼の命を救ったかに関する本に取り組んでいます。

翻訳     津坂 守英@名古屋城北RC


Rotary12月号
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Rotary12月号

                                先駆者は失敗が勲章

最初に失敗で始まるなら、あなたはカート・ヴォネガットやジェフ・ベゾスに似ています。

                                         スティーヴ・アーモンド

 数年前のことです。私にとっての文学のヒーローについて、アーカイブを調べるためにブルーミントン市インディアナ大学に向かいました。カート・ヴォネガットJr.は、自身に関する本を書いていて、その著作が彼の天才性に一瞥を与えるものと願っていました。しかし明らかになったことは、予想もしていないものでした。惨めな失敗を繰り返していたのです。

カート・ヴォネガットは高名な作家で、名を広く知らしめた一連のベストセラーを量産した人物とここで言うつもりはありません。彼は失敗の連続であった作家、しがない車の販売営業者、目の出ない発明家であり、妻や子を養うのに人生の最初のほぼ半分で苦闘し、絶望的な生活を送った人物なのです。全てがそこに書かれていました。

サーブ販売代理権の購入(結果破産)、おもちゃ会社へ送ったボードゲーム用の華麗な概略図応募(拒絶)、その当時に書いた10篇以上の未出版の短編小説。その物語は最も啓蒙的でした。当時の小説集は有能さを見せながらも、そこに生き生きとした生命力がありませんでした。作家活動後半で創り出した賢明さと機知に富んだ物語のようなものが少しも見当たりません。

これら遺作をじっくり読みながら、私の心は彼がロトの『聖書物語』について論じる最も有名な小説『スローターハウス-5』の冒頭ページに漂っていました。「そしてロトの妻はこう命じられる。人々が暮らし、住んでいる家々があるソドムの街を決してふり返らないようにと。しかし結局ふり返ってしまう。それでも人間的な意味で彼女がとても愛おしい。その結果塩の柱に姿を変えられても。」導入部の終わりごろヴォネガットは、私たちがこれから読もうとする本が塩の柱によって書かれた故に失敗作であるし、そうならざるを得ないものだったと、認めています。

その後、私は別の文章を思い出しました。ヴォネガット、1990年の小説『ホーカス ポーカス』からのものです。「18歳以下の人々に向けてこの本を書いてはいない。しかし失敗が彼らに起こる主なことなのだから、成功よりも失敗の準備をするよう伝えることに何の不都合があるだろうか。」両引用文はその後ずっと私を悩ませました。ほとんどの人々、特に大抵のアメリカ人のように、一種の災難、究極の屈辱として失敗に関し人生の多くを過ごしてきました。でもつい最近、大きな望みの中で避けられない部分として失敗を見なすようになったのです。

成功の反対ではなく、成功への必要な前ぶれとして。この言葉をそのまま信じる必要はありません。でも私たちが途方もない成功と考えるほとんどの人々は同じことを言っています。例えばマイケル・ジョーダン。彼についてのポピュラーな神話は、負けることに耐えられなかったので、究極の勝利者になったというものです。

しかしジョーダンは強力なやる気ツールとして失敗を理解していました。高校では、彼は二軍チームに追いやられ、忘れられない軽蔑を受けたのです。「今までに9,000を超えるシュートをはずしています。」彼は有名なナイキの広告の中で伝えています。「私はほぼ300試合に敗れ、ゲームを決めるシュートを任されても、26回失敗しました。私は人生で、何度も何度も、何度も打ちのめされました。そしてそれが成功した理由です。」

アブラハム・リンカーンは、マイケル・ジョーダンと共通(並外れた高みに達したことは別として)する点はわずかのように思えます。しかし、彼もまた最初は度重なる挫折に翻弄されました。事業に失敗、ノイローゼになり、イリノイ議会および連邦議会への最初の選挙戦に敗退を余儀なくされています。彼はこう言っています。「私の大きな関心事は、あなたが失敗したかどうかではなく、失敗に甘んじているかどうかなのだ。」

ビル・ゲイツはハーバード大を退学し、マイクロソフトを立ち上げる前に事業を破綻させています。その後31歳でマイクロソフトによって、彼は当時世界で最も若い自力での億万長者になりました。ゲイツはこう信じています。「成功に祝杯をあげることは素晴らしいけど、失敗からの教えに注意を払うことがもっと重要なのだ。」世界の最も成功した権力者のリストを一枚ずつめくって下さい。

そうすれば彼らが全員失敗の重要性を強調していることが分かるでしょう。中国のITテクノロジー億万長者ジャック・マーはハーバード大に10回受験し、ことごとく失敗しています。それを2016年世界経済フォーラムで自慢げに話しました。(どうだい、ゲイツ!) 更に彼は若い時ケンタッキーフライドチキンでの仕事を希望したことを思い出しました。希望者24人のうち、23人が雇われました。蹴とばされたのは誰か分かりますね。成功した人達は、単にやる気を上げるツールとして失敗を使うのではありません。

彼らは成功プロセスに内在する部分として失敗を認めているのです。アマゾンCEO、ジェフ・ベゾスは、失敗に対する寛容さは会社の文化に織り込み済みであると主張しています。「失敗は革新にとって重要な部分なのです。それはあってもなくてもよいものではありません。私たちはそこを理解し、初めに失敗しても正しくやれるまで繰り返すことが大切だと思っています。」失敗が正しく機能した革新国家であるアメリカでは、最も有名で最も多くを産み出した発明家トーマス・エジソンに遡ることができます。

成功への最も大きな障害は、失敗という精神的痛みそのものではなく、失敗の恐れによって引き起こされる躊躇だと彼は理解しました。ある発明について尋ねられた時、エジソンは何千もの失敗に恥ずかしさを感じませんでした。実際、どんな試みも失敗として見なすことを拒絶しました。「多くの結果を得てきました。数千ものうまくいかなかった事例を知ることができたのです。」この感情は、もう一人の有名な思索家アルバート・アインシュタインのモットーに反映されます。

彼は失敗が成功に近づいている以外の何物でもないと信じていました。相対性理論を生み出したこの人物は、ハーバードを受験したこともなく、ついでに言えばチューリッヒ連邦工業大への入学試験に失敗しています。これら全てのアイコン的人物が示すものがここにあります。それは本質的に持っている許容力であり、失敗を一時的状況と見なし、内向化せずに吸収しているのです。もっと身近な例で、私は同じことをしようと努力しました。

創作文芸のため大学院にいた時、自身にまつわる短編小説を公表しようと決心していたのです。不運にもそのほとんどはあまり良い出来ではなく、ヴォネガットの初期の創作活動に非常に似ていました。感受性もなく型にはまったもので、それにもかかわらず文学雑誌に執拗に投稿しました。これはインターネット以前の時代であり、従って多くの原稿を封筒に詰め込み切手を貼って出したのです。

同じ課程にいたもう一人の作家、友達のカミールは、ひと夏私のアパートを転借していました。彼女は私が3か月で受け取った拒絶の数に衝撃を受けました。「それは100通以上だったに違いないわ。」と数年後に伝えました。「それは私の為のようなレッスンだった。何故ならあなたが既に数編の小説を公表できていたことから、後ろに控える私達の先例としてあなたのことを考えたから。

私が分かっていないものは、あなたが全て受け入れた拒絶の山だった。拒絶に対し、ある種無感覚になる方法を理解していたのかな。」真実はずっと複雑でした。私は拒絶を嫌っていました。しかし、私は拒絶を侮辱と挑戦の両方と見なすのに十分にタフだったか、あるいは恐らく十分に傲慢でした。拒絶は私に疑惑を抱く人が間違っていることを証明することに夢中にさせました。

ある意味では、失敗は私にとって心を刺激する燃料でした。失敗がずっと深遠な役割として役立つことができると理解するには十年が必要でした。つまり人生の教師として。その時までに、どうにか短編小説の本を出版しました。その後の活動として、多いに野心的な小説に取り掛かって2年を過ごします。代理人が結局は私に知らせたとき、小説への反応は本当にひどいものでした。

もちろん、その時までに拒絶には慣れていましたが、人生の2年間を浪費したという認識は、憂鬱の海へ私を沈めました。何か月も敗北感を味わったのです。はっきり言って誰にもこの感覚を推奨しません。意気消沈していれば、意味ある仕事をすることがほとんどできないからです。しかし心の停滞状態にも重大な恩恵があったことも事実です。卓越したアメリカ小説を書くように運命づけられているという考えを放棄しました。

代わりに、より単純な問いかけに直面することを強いられました。どんなテーマが本当に私を興奮させてきたのか。その答えは、深く個人的で明らかに非文学的なものであると判明しました。終生に渡って甘い菓子キャンディーにこだわりをもっていました。この情熱がベッドから起き上がらせ、その世界に飛び込ませたのです。特にキャンディー工場の魅惑的な世界へ。このことで今度は、私に『Candyfreak;副題 アメリカのチョコレートの隠れた裏側に通じる旅』と題する本を書かせました。

それはニューヨークタイムズ誌でベストセラーとなりました。その後十五年間以上、私の職業は同じ軌跡の上を辿っています。小説を書くことにずっと失敗しつつ、自身のテーマとなるノンフィクションに集中することでスランプから這い上がり、自分なりの道に沿って書いています。私は、いつか小説を出版することを望んでいます。しかしゴールに達成できないことが、私の文筆生活の終了ではないとも思っています。

それは他のプロジェクトを追求するべきであるという単なる予兆です。作家としての25年後の今でさえ、私はいつでも失敗をやらかします。大抵この失敗は、次のステップに転じる形式をとります。ちょうど今、まさにこの段落を書きながらインターネットを開いたまま、猫が近くの屋根に跳びつこうとしているビデオを見つけました。このビデオ製作者は賢くも猫の頭の上に考えを表す吹き出しを描きました。

それにより猫は正確な加速および軌道を解くのに必要となる複雑な数式計算をしているように見せています。その後猫はジャンプし、5フィート離れた屋根を狙いそこない、残念ながら縁から落下しました。このビデオを3回見た後不思議に爽やかな気分で、このエッセイ執筆に戻りました。作家として、まさに四六時中あの猫のようなのだと感じたのです。

読者に届くために私の文章が正確さとパワーを持つことを絶えず望んで、頭の中では数式計算を繰り返しています。それから飛距離不足で縁から落下します。同じことは成功という言葉で祝福されるべき全ての芸術家、科学者、起業家に当てはまります。彼らが身につけていると思われる魔法の才能が何であれ、あなたはその勝利だけを見ています。彼らが成功へ向かう途中に蓄積しなければならなかった失敗の山を見ていません。事実、それが屋根に到達する唯一の方法なのです。彼らは山のような失敗の頂上から飛び上がったのです。

スティーヴ・アーモンド

ニューヨークタイムズ誌ベストセラー『Candyfreak』、『フットボールの功罪』を始め、フィクションとノンフィクションの11冊の本の著者。彼の最新本は『ウィリアム・ストーナーと精神生活のための戦い』です。


翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC


Rotary11月号
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               Rotary11月号

             すべての怒り

病的なものとして怒りを処理すべきではありません。どんな真実が隠れていて、如何なる行動が必要かを探し出さねばなりません。

                    スティーヴ・アーモンド

1970年代の思春期の頃、ハワード・ビール(映画『ネットワーク』に出てきたニュース・アンカー)のスローガンをよくまねしていました。「地獄のように怒っている。もう、やってられない!」映画では落ち目のビールが怒り、テレビでその怒りを示そうとしたことで、視聴者の激怒を煽って解雇されそうなニュースキャスターだった彼を人気ランキングトップに換えました。『ネットワーク』は今後を予言していると思いました。営利を追及する大衆扇動の高まりが、今やメディア環境や公的発言で支配的だったからです。

しかし最近の数か月で、別の観点から映画を見るようになりました。実際この映画は怒りを自分に利するものとした内容をテーマとしています。『ネットワーク』での大きな悲劇は、ビールと視聴者が腹を立てていること自体ではありません。誰もそれが何故生まれたかを気にかけなかったのです。最近怒りを覚えたこと、全てのストレス、不安を考えてみてください。それは怒りを発する瞬間にあなたに押し寄せてきます。

怒りの噴火に導く全ての瞬間についても同様に。怒り、フラストレーションを心の奥底にむりやり抑え込んでいるのです。あなたの怒りの爆発が私と同じようなものなら、数か月(数年ではないにしても)のうちにその種が作られます。きっかけはある際立った挑発かもしれません。しかし、怒りの噴火口は過去からの未解決で吟味されない感情からできています。圧倒されたと感じ、理性がぷつんと切れます。その結果は破壊的ですが、激怒は単なる自己嫌悪の敗北ではありません。それは疑い深さと絶望のあらわれです。

私達のすべき事は怒りを否定するのではなく、それを問いただす勇気を奮い起こすことです。ジェームズ・ボールドウィンは問題作『アメリカの息子のノート』でこう書いています。「人が嫌悪感にいつまでも執着する理由の1つは、むりやり苦痛を味合わされたと感じるからだと思う。一度は憎しみが去ったとしても。」2013年の強烈な小説『2階の女』で、クレア・メサドは、それをさらに正確に記述しています。「とりわけ、怒りの中で私は悲しみに襲われる。いつものごとく、怒りに燃え滾る炎には、悲しみの核が存在する。

その炎は全てを根こそぎに焼き払う。激しくも実りのないままに。」先日の私と娘のことです。ロザリーと私はピンクのマスクをして、散歩に出かけました。6歳のロザリーは、ポケモンGOとして知られるスマホゲームカルト教の忠実な信徒です。そして、私がその目的のために与えた時間内にできるだけ多くの仮想ポケモンを捕らえようと決めていました。その目的のため、娘は私より進んで地元の墓地の方へ走り出しました。そこは気味悪くとも常にポケモンだらけの場所なのです。その時娘は走りながら、やはりマスクをした老夫婦の横を通りました。何が起きたかは正確に見ていませんでした。

しかし、その老夫婦の夫が「この娘を私たちから離して!」と急に叫んだことで、娘がソーシャルディスタンスのルールに注意を払っていない感じたことがはっきり分かりました。怒鳴られた訳です。それは、公の環境での突然生ずる怒りの噴火の類でした。人から6フィート離れる必要があることをロザリーに直ちに思い出させました。それから、私は老人の方に向きました。

「今はだれもが不安だということは分かるけど。しかし、お互いイラつくことはないでしょう。」あたかも膝からパンくずを払いのけるかのように、彼はマスクの裏から睨みつけて、手を振り払いました。「もう行ってくれ。」と、その身振りは意味していました。この反応に怒りを覚えたと言うなら、私が感じたものを正確に表したわけではありません。それでもとにかくひどく腹が立ったのです。そして、そのことに苛立って数日を過ごしました。

かっかとする大部分の相手である妻は、こう言いました。「皆の神経がこのパンデミックの間にすり減っているのだから、その人を許すべきで、そんな出来事はうまく乗り越えるべきよ。」それは妻がよく言うように、次のことを意味しました。「つまらないことに熱弁をふるうことをやめなさい。」私はそうしました。しかし、心ではその男のことをずっと考えていました。反射的な敵意、上から目線の身振りに心乱れる思いだったのです。

そして湧き上がる怒りの抑えきれない高まりを感じたのです。ただ改めてあの老人を怒らせた原因を考えようとした時、私は少しずつ理解し始めました。例えば妻に腹を立てたとします。実際の問題は私を巻き込んだ議論が何であったかではありません。それは、ただ十分に愛されていない、そのような愛に価しないという絶望的な恐れから隠れる逃げ道なのです。私が子どもたちに怒る場合、反抗的であるからではありません。

子供達のフラストレーションや悲しみに、救いとなる魔法の言葉や行動が取れないことで、親として救いのない感情を抱くからです。これは、怒りの対象となるすべての見知らぬ人についてもそうです。一歩引き下がり、なぜかと思う必要があるのです。例えば、最近自宅を再配線するために頼んだ電気業者にいらいらしました。理由はほとんど彼の腕前に関係がありません。でも、彼の説明の仕方が下手な上に、いらいらさせた原因は私が複雑な専門用語を理解できると期待し続けたことにあります。

内側に起きた狼狽は、気味悪いほどに身近にあり、子供時代に何度もその感情を味わいました。その当時兄や父が私の知識をはるかに越えて科学的な概念について話し合っていました。故意ではなくとも、電気業者は味わった昔の屈辱のはれ物をつついたのです。この意味で、私たちは心にずっと昔に据えた見えない傷を持って歩き回っています。一方ハワード・ビールのように、集票目的の扇動政治家は激怒に聴衆を引き込むことで報酬を得ます。また無分別な怒りは、常に破壊的な考えに結びつきます。

しかし、私たちがそこから距離をおき、その怒りが自分の視野を明確にさせるなら、どうなるでしょう。ここにジェームズ・アブリル(アマーストのマサチューセッツ大学心理学教授)が熟考した論点があります。おおまかに言えばアブリルはこう論じました。もし適切な原因に向けられれば、怒りはポジティブな結果に結びつく健全な反応になり得ます。アブリルは次のことを発見しました。怒りはややもすれば修復不能となる問題に向き合うように刺激してくれます。そして実際にもっと心開いて話せるように、注意深く耳を傾けるようにしむけます。

怒りを解き放せば更にヒートアップさせるよりましになるはずです。特に怒りで悲しい程に満ちている時代には、次のことは重要な意味を持ちます。破壊的な怒りと建設的な怒りを分けること。前者は世界にあなたの苦痛を与えようとする願望です。後者は、あなたの苦痛がどこから来るのか、それがどのように改善されるかを突き止める努力です。現在の自粛の長き日々に、子供達に関するフラストレーションを抑えようとすることがよくあります。

なぜなら彼らが自分達のやり方でそれぞれもがき苦闘していることが分かっているからです。それでもついには、これらの沈黙させられたフラストレーションは、噴火に至ります。先日の夕方、子供達が誰もお手伝いをしていないと分かった時、私は怒りました。妻と私がどれくらい熱心に働いているか、いかにわずかなことを頼んだかを伝え、小言を言うのにどれ程あきあきしているかを説明しました。静かに抑制された声で言ったでしょうか。

いいえ、そうしませんでした。しかし私の猛烈な調子は、子供達を傷つかないように意図されました。忍耐の限界になぜに達したかを伝える必要がありました。最終結果は多少驚いたことに、家族が相互に助け合う姿に落ち着いたのです。正直に怒ったことにほっとしました。子供達は負わされる明瞭な義務を得たことに安心したと感じ、それが曖昧であっても捜していたものだったのです。同じことは結婚においても当てはまります。論争を避けるというより、妻と私は生産的な話し合いとなるように努めています。

このことは特別の瞬間に感じる怒りに耳を傾け、かつ私たちが互いに感じるものを共有することを要求します。その結果アブリルが述べたように、そうしなければわだかまりを生み出したであろう問題に向き合うことになります。敬意を持ったやり方でそうする限り、私たちは互いと関わり、陰うつな静寂へ退くのではなく、繋がったままでいられます。そして、一緒に働く人や子供達、友達に対する怒りを感じ始めるなら、次のなぜかを自分に尋ねます。

私の怒りは何を意味するのか。それは私の中で何を明らかにしているか。ロータリアンにとってこの問いかけをする能力は大切です。そして重要で複雑なプロジェクトで、実際にボランティアの立場から大きな団体と一緒に活動する人達にとっても同様に。このような状況で他者の対人関係のスタイルや自身の立ち位置を理解できていないと感じるのはよくあることです。

この点で私たちは一歩引きさがる必要があり、フラストレーションの源を理解しなければなりません。怒りは招かざるものでありながら必然的な真実がその裏側に常に隠されています。私の場合、価値あるものを受け取れない不安、恐れ、自分は愛や敬意を受ける価値のないという抜きがたい感覚の現れとして、消えないいらだちを怒りの中に見るようになりました。これらの真実を認めるのは簡単ではありません。しかしそうすれば、奇妙なことが起こります。怒りは、収まる傾向となるのです。

私たちは不安について考えるのと同じ方法で怒りについて考えるべきです。つまり人間関係の調整という自然な部分、一種の早期警報システムとして。ボールドウィン教授はさらに以下のように記しています。「直面する何もかもが変更可能とは限らないけれど、直面するまでは何も変えられない。」これは、親、友達、同僚、市民としての我々の人生において当てはまります。問題は私たちが怒りをどう処置しようとするか、です。怒りに希望の光を見出し、そこから学ぶならば、恐らく私たちは自らの不満に隠れている脆弱性を理解し、対処できるはずです。

スティーブ・アーモンドはフィクション、ノンフィクション小説を11刊発表しています。その中にNew York Timesでベストセラーとされた『Candyfreak』、『Against Football』が含まれています。最近の著書に『ウィリアム・ストーナーと心理的苦闘』があります。


翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC


Rotary10月号
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                                             Rotary10月号

                   タイムアウト

コロナによるスポーツのタイムアウト。私たちは理解し始めました。スポーツがどのように人々を引き付けてきたか、そしてそれがない今失ったものが何かを。

                                                                                          ケビン・クック

 そのニュースが入った時、息子と私はNBAのゲームを観戦していました。バスケットボールの試合は終わりを迎えています。それは3月11日の夜のこと。コロナウイルス・パンデミックのためにNBAは『更なる通知まで』シーズン中止を宣言。その時、ダラス・マヴェリックスはデンバー・ナゲッツと対戦していました。私たちが知る前に、オーナー、マーク・キューバンはその知らせを受けていたようです。マヴェリックスを所有する億万長者はスマホを見ながらコートサイドに座り込み、開いた口がふさがらない様子。

間もなく各局アナウンサーは当面ひょっとしたら再開はずっとむり、となる最後のNBAのゲームを観客が見守っていたことを知らせました。いつの間にか私の心は2001年に。あの日崩落した世界貿易センターから、わずか5ブロック離れた場所で暮らしていたのです。破壊された隣地区から非難した時、当時3年生の息子カールはこう尋ねました。「メッツは今夜プレーするの。」「今夜はむりだ。しばらくはね。」幾つかの場面でCOVID-19のパンデミックは、9・11の再現を呼び起こします。

私たちの最初の反応は、再び家族として寄り添うことでした。その次に亡くなった人々への悲しみが生じ、世界中の国、都市への不安が続きました。こんなことが二度と起きないように願いながら。そして再び待機することになりました。日頃は見るのが当然と考えていたスポーツが、いつ戻るかという思いの中で。しかし今回はずっと長い待機となりそうです。アメリカのスポーツが6日間息を潜めた時点で、新しい危機は2001年とは異なっていました。現在、ゲームに集まる行為だけでも選手とファンを危険にさらすでしょう。

ヤンキースタジアムでどのように娘の誕生日を過ごしたかを振り返って思い出せます。いつものようにスコアボードを見ればそこにはメッセージが。『誕生日おめでとう、リリィ』、そして他のファンと肩を触れ合いながらスタジアムを去る時、シナトラの『ニューヨーク、ニューヨーク』を聴いたのです。いつになれば再びあの光景がやってくるでしょうか。しばらくといった程度ではないことは確かです。新しい非日常に、私たちは銘々の場所に避難しました。毎日は同じ繰り返し。起きて、ラップトップを立ち上げテレワーク、食べて、眠って、その繰り返し。

スポーツが提供する毎日のドラマ、楽しさを熱望していました。少なくとも、多くの人達と同じ混み合った船に乗りあっていたのです。ある人達はルームランナーでローラーシューズを試したり、消毒剤のボトルに向かってテニスボールを転がすことでボウリングをしました。何人かはZoomで腕立て伏せコンテストを行いました。スポーツ実況中毒の人達は、ESPNのマイケル・ジョーダンに関するドキュメンタリー『ラスト・ダンス』をパート10まで一気見しました。『ロッキー』は言うに及ばず『フジャース』『スラップショット』『シービスケット』『プリティリーグ』『ボールズ・ボールズ』それに最も一押しの『グラディエーター』まで。

そしてコロナウイルスによるロックダウンが世界中で続く時、3500万人を超えるユーチューブ視聴者は、多色マーブルボールがダウンヒルを転がるのを見つめていました。これはMarbleLympicsやMarbula Oneと呼ばれるレース競技です。その間スポーツキャスター、ジョー・バックが『自粛コール』で、ファンが送ったビデオを実況しました。棒を取り合う犬(『ブルース・ウェイン君は明らかに相手を翻弄し、ロッコ君は棒を咥えるチャンスを持てそうに思えません。』)から、フルコートでスリーポイントを決める少年(『決めた!パパは大喜び』)まで、それにマーブルレースも加わります。『4個のマーブルレースが始まりました。

おっと、アクシデント発生。トルコ石ボールは遅れをとって後退しています。』友人のケンは、こういった生活に何とか持ちこたえてきたと伝えました。「長い春だったよ。バスケットトーナメント『マーチマッドネス』が開催取り消しとなった時、引きこもりとなってしまった。そしてその後マスターズ、ケンタッキーダービー、ウィンブルドンと、他のものすべての競技が取りやめ。パットを屋内で練習し、庭でゴルフのチップショットをやっているよ。フリスビーゴルフやソープボックスダービーの録画も実際見ていたけど、昔のスーパーボウルやワールド・シリーズでは面白くない。

誰が勝つか分かっていればね。」それでも生涯のメッツ・ファンであるゴルフ仲間ダグは異なる取り組み方をしました。「野球であれば何でも見るつもりさ。乱闘も、本当に素晴らしい国歌演奏も、もちろん1969年と1986年のワールド・シリーズだって。(メッツはその年優勝。) そして、それに関して結末にあきることは何もない。メッツが勝利することは分かっているけど、今だってナーバスになるよ。そう、彼らはメッツなのだから。」引退したフォーサムの別のメンバー、クリスは、ニュージャージー州ウェストフィールド女子高サッカーチームの副コーチでした。

「最終年のシーンの一部を失った全米の高校生に対し、憐れみに似た感情があるよ。今、個人的楽しみのスポーツは料理だね。家族の夕食を作ることにエネルギーの100パーセントを注ぎ込んでいる。手製のピザ?全く問題なし。軸付きトウモロコシや手製のイチゴ・ショートケーキを備え、炒った赤トウガラシとモツァレラ・チーズをはさんだグリルチキンサンドイッチ?バッチリさ。私の目標は実に重要なトロフィーを獲得することだね。

それは『その年の夫賞』のコーヒー・マグ。」ロックダウンという未知の長い期間中見ていた無数のスポーツ・ビデオの中には、贔屓しているクリスのサッカーチームの試合とトイレットペーパーチャレンジ勝者の映像があります。ウェストフィールドでは学校閉鎖。女子高生がいろいろな居間、寝室、車道、庭にいて、足や膝でトイレットペーパーをパスします。あざやかな編集で、空中でトイレットペーパーを受け取り続けるように見せます。北ニュージャージー州を通して渡したり返したりするのです。

社会的に距離を置いたチームワークが発揮されたことに嬉しく感じました。オレ、オレ、オレ!スポーツに熱心な我が家族は、ある種独自のチームワークがあります。別々にいても、心は一緒なのです。大学院生カールはこの不確かな時期に自身のビジネスを始め、二人で再びゴルフプレーする時には私よりオーバードライブするよ、と言っています。彼が賭けを徴収しようとする時は、社会的距離を維持しなくては。リリィはヤンキースの試合がある間自分の部屋からテキストメッセージをいつも送ってくれていました。

その彼女も韓国ベースボール機構が、2020年最初のプロレギュラーシーズンを開催した時は大喜びでした。それはアメリカのテレビで上映されたのです。アパートから180マイル離れた場所で、私たちは、KBOのサムスンライオンズ、起亜タイガース、斗山ベアーズが空っぽのスタジアムで試合を始めるのを見守りました。座席にはファンを描いたボール紙の切り絵が固定されていました。ホームランはそこにはいない静寂の群衆の中へ。しかし、それはいつもと同じゲームでした。リリィは次のようにメールしてきました。

『これが球場の雰囲気??』KBOの試合を見たり、アメリカのスポーツリーグがシーズンを再開する努力を止めているという報告書を読みながら、バイクツーリングで時間をつぶしました。外での活動は心地よいものです。ジョギングする人やマスクを付けたサイクリストを通り抜けました。鳥、リス、シマリス、リンゴ果樹園、トウモロコシ畑を横目に見ながら。春先の田舎では、パンデミックの発生を知りません。旅の終了間際に、3頭のやせた雌牛がほとんど泥に覆われた野原で草を食べる姿を見つけました。バイクを降り、動物用にポケットに持っていた2,3本のニンジンを差し出したところ、一気にむしゃむしゃ食べ出す牛達。世話をしている農夫が声をかけてくれました。

「その大きな去勢牛はクリフォード。灰色の長い角はマーリー、残りの雌はシェチーだ。」クリフォードとマーリーは、いじめっ子であると判明しました。私が袋に入れてあったりんごをあげ始めた時、2頭は気立ての優しいシェチーをわきに押し、自分たちの取り分と同じように彼女の取り分をもぐもぐ食べ出したのです。彼女を助けるには、腕を上げる必要がありそうです。りんごをあげるだけでは初心者だと判断して、道路沿いの農作業供給店を見つけて蓄牛飼料の入った50ポンドの袋を買い入れました。

それはプレミアム雌牛飼料50枚入り1ガロンサイズのジップロックバッグに入れるに十分な量。とりあえずバックパックに3バッグ詰め、取って返しました。いじめっ子達は自分達の分をそれぞれむしゃむしゃ食べ、更にシェチーを横に押しやってプラスティックの餌入りボウルから遠ざけています。現実のスポーツ競技がない中、クリフォードとマーリーを相手方チームと見なすことにしました。しかし、2頭は警告が目に入りません。私が振るゴルフクラブを無視したのです。椅子取りゲームのように、餌を入れる間ボウルからボウルに押し合っています。私が必要としたものは勝利への戦略でした。

牛フットボールでの名コーチ、べリヒックになる必要がありそうです。そこで結局のところ、4つの餌入りボウルを試めすことに。それぞれの牛用ボウルに特別枠のワイルドカードをプラスしたのです。全頭が3個のボウルに突っ込むとともに、ジョー・バックが実況するのが聞こえてくるようです。『去勢牛クリフォードが最初のボウルを独り占め、2番目にマーリー、3番目にシェチーが回る。さあ、選手は移動します。

ぶつかった!2頭はシェチーを脇に押しやります。しかし、いじめっ子達は2つのポジションしかカバーできていません。シェチーは横切って進みます。クック(著者)は2頭の気を散らしています。その一方でシェチーはひとつのボウルから別のボウルへ。やった!見てください。明日はもうないとでも言うかのように、彼女はむしゃむしゃ食べています!』その光景はスーパーボウルより楽しく感じられたのです。

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC


Rotary9月号
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                 Rotary9月号


                      タフなヤツ


ポリオを克服する為何が必要だったか、それを知れば新しい脅威にも挫けることを拒否できます。

                                                                                           ポール・エングルマン

  60年程前の1955年、ポリオと診察されました。私は2歳でした。ですからポリオウイルス感染の意味が分かっていませんでした。しかし年をとるに従い、曰く言い難い方法で知らされるようになっていきました。母は私が幸運な1人だ、と言ったことがあります。ある時点でそれが何を言いたかったかようやく理解できました。母はニュージャジー州ジャージーシティ出身です。

そして、終生そのなまりは消えず、毎日フィルタ無しのたばこをふかすことが養生法だと話す豪気の人でした。彼女は第二次世界大戦中、民間人として補給トラックを運転していました。その当時のあるアメリカ兵とのやり取りを面白そうに話してくれたことがあります。基地まで乗せてやった時そのアメリカ兵は、なれなれしく言い寄ってきたと言うのです。

もう結婚していて夫が海外に配属されていると伝えても、彼はこう言いました。「あのさあ、何のためにとっておくのさ。芋虫?」彼女はトラックを止めて言いました。「後に乗って!バスター!」母が罵り言葉を使ったことは疑いようもありません。ジャージーなまりはそのままでしたが、再びその話を語った時には二度と使いませんでした。

しかし、今でも「芋虫の為にとっておく」は、今まで聞いた中で最も滑稽なセリフだったと思っているようです。彼女は厄介ごとなんて軽く受け流す典型的にタフな女性でした。しかし、他のことのように母の心をほぐせない記憶があります。ポリオと診察される幼い息子に関わること、そして1950年代初期の夏に、国中の親に忍び寄った明らかな恐れ。

母はその時について話す時、声の震えを止めることができませんでした。その姿は、「雨がやんだらポリオ感染の恐れがある水たまりを避けて。」という母の警告に加えて、流行するこの病がいかに怖いことかという意識を形作りました。幼年期の思い出の中で、経口ポリオワクチンを得たことは、核攻撃に備え机の下で安全を確保するように教えられた教室演習と同じくらい鮮明な印象となっています。

当時に戻って学校の机がどんなに頑丈だったか冗談を飛ばせても、セービンのワクチン含有角砂糖を口にする為、地元消防署の敷地で列に並んだことは何ら楽しい記憶ではありません。そのときの経験したことは今も心に残っています。時が経つにつれポリオから生存できたことへ感謝の思いは、次第に消えかかっていました。しかし、Rotarian誌のために書き始めた約12年前から再び蘇ってきたのです。

ポリオは根絶されたと思っていました。あるいは、もっと正確に言えば、そのことに考えも及んでいなかったのです。以来ポリオについて知るべき機会を得ており、そのゴールを達成するため活動する何人かのロータリアンに畏敬の念を覚えています。さて、新型コロナウイルスが世界中に蔓延するとともに、幸運な一人であったことに新たな感謝の念を感じます。

そして60年程前に多くの人にとってどんなに恐ろしい生活を過ごしたかについて、ずっと理解を深めることができます。67歳の喫煙経験者として、ウィルスに脆弱なひとりだと認識しています。私には二人の成人した子供がいてそのことをいつも忘れないようにしています。しかし、またそういう幸せで恵まれた特権を得ているともいえます。現在妻と私は家から仕事ができ、快適な一戸建ての家に暮らしながら、若干の犠牲を払えばソーシャルディスタンスを実践できる余裕があります。

ワクチンのない当時、大人はポリオに対して免疫がありませんでした。フランクリンD.ルーズヴェルト大統領が39歳で感染したことは有名な話です。ほとんどの犠牲者は幼い子供達でしたが。今日COVID-19は、60歳以上の人々に最も危険を引き起こすと思われます。すなわちポリオが65年前にターゲットとした同じグループに。

「そのとき国にはハイレベルの恐怖心がはびこりました。私たちが今抱えている状況に非常に似ています。」私が畏敬するボランティアのひとりコート・ヴォーンはそう言っています。私たちが4月に話し合った時、ヴォーンとその妻トーニャは、インドのポリオ予防接種キャンペーン参加から戻ってきたところでした。グレーターベンドRCメンバーであり、End Polio Nowのコーディネーターであるヴォーンは、気づいた時にはすでにポリオ最前線で活動を始めていました。

彼は3歳の時、カリフォニア州リヴァーサイドでポリオ救済募金活動のポスターキャラクターでした。その時の写真が載っている地元紙の記事のコピーを今でも持っています。そこには1955年の募金運動で、人々が寄付した少額のお金を守るカウボーイ姿の本人が写っています。ヴォーンは、1954年10月の2歳でポリオに感染したことを覚えていません。

しかし彼はこう話しています。「ポリオについて両親が話す姿を明瞭に覚えています。そして今でも二人が経験したことを話す声に悲しさを感じるのです。母にすれば、もしかすると死に至る疾病に子供がかかるという恐れや不安を、その時に戻って追体験しているようでした。二人の話は真に迫って一点の曇りのないもので、ほとんど私自身の記憶になりました。」最も辛い話は彼の母がある朝気が付いたことから始まります。

よちよち歩きの幼児が急に歩けなくなったのです。医者に電話し、病院に彼を急いで連れて行くことになりました。「病院へ行かなければ、終身歩行不能となる高い可能性がありました。一旦両親がそこに私を連れて行ったなら、彼らの手から離れることになります。」当時ポリオ病棟は面会者を制限していました。でもヴォーンの母は、子供の傍にいたいと切に願いました。

「そこで母は、病院にボランティアを派遣する女性グループを見つけました。まずは私に会うため、女子青年連盟に加わったのです。」ヴォーンがかかった病気は右足の膝から下を麻痺させました。下肢装具をつけることを要求され、友達と戸外で遊ぶ代わりに、理学療法の為病院へしばらく何度も通う必要があると伝えられました。「その時は幸運だとは、とても感じられませんでした。しかし今ふり返ればそうだったと思えます。」

更にポリオの後遺症を受け入れることで身につけた見識が、現在のパンデミックを克服する為必要とされるものを理解する力を高めた、そうヴォーンは信じています。「隠れた脅威に直面することがどのようなものか知っています。そして、人々が警戒を怠らず、かつ蔓延を防ぐためにともに活動する必要さを認識しています。」「友人や親せきがそれ程深刻ではないと考えていた頃、早い時期からオレゴンで出た自宅待機令を守っていました。」

『タフなやつ』という言葉が抵抗なく使われるなら、キャロル・ファーガソンはそのポスターキャラクターになるかもしれません。彼女が経験する痛みと筋衰弱が、40年程前にあのウィルス感染によるポリオ後遺症候群であることを理解したのは、最近のことです。6年前にファーガソンは、ペンシルバニア・ポリオ生存者ネットワークを始めるために3人のポリオ生存者と5人の友人の支援を得ました。

それはボランテイアによる支援組織であり、ポリオに関わる人々の物語を共有し、ポリオ後症候群に関する情報提供に加え、ポリオの認識を高めながら、免疫によって感染症を防ぐ必要性を訴える為ロビー活動を展開しています。ペンシルベニア州ドイルズタウンRCのメンバーで、7430地区ポリオプラス分科委員会委員長であるファーガソンは、COVID-19の第一波を耳にし始めた経緯が、ポリオ生存者仲間が伝える昔話に不気味な程似ていると言います。

例えば5歳で入院した少女は、毎週両親が来てくれることを忘れず、その間できることは窓越しにただ手を振るだけでした。ベッドが利用できず、病院から引き返した2歳の少年もいました。ファーガソン自身の物語は、彼女の両親が彼女に伝えなかった事実を明らかにします。「私が2歳だった時、夏インフルエンザに感染しました。今、それがポリオだと分かっています。」(10年後に診察した医者は、ポリオに感染した足だと告げました。)

「それがポリオという言葉が話に出された唯一の時でした。私の母親は92歳まで生きましたが、亡くなる直前までポリオについて話しませんでした。父親はその言葉を決して口にしないまま亡くなりました。それが両親の感じた恐れの表れであることを今なら理解できます。」それでもファーガソンは、このような脅威に対して沈黙の必要性を感じません。今年の初めに、州の新しい親に配布する、予防接種情報資源カードを制作するために、彼女はペンシルバニア免疫センター及び地元RC協力の下、イニシアチブの先頭に立ちました。

ジョナス・ソークが1955年4月に歴史的なワクチン試験成功を発表した時、集団予防注射の必要性が広範囲に受け入れられました。将来のある時点でCOVID-19の蔓延をコントロールするワクチンを発表する為、現代のソークやアルバート・セービンがきっと現れることでしょう。しかし、ワクチンがどれほど広く受け入れられるかを誰も予想できません。

現在、1950年代の人々がほとんど想像できなかった通信技術の恩恵がありますが、かえってそういった技術により、誤報や偽情報もまたウィルス自体と同じくらい急速に広がることを可能にします。それでもファーガソンは、ワクチンに関する確実で正確な情報がそれに打ち勝つはずと期待しています。勿論、私だって彼女が正しいことを望んでいるのです。

ポール・エングルマンはポリオからの生存者であり、Rotarian誌への準定期的寄稿者です。



翻訳     津坂 守英@名古屋城北RC


Rotarian8月号
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                                                   Rotarian8月号

                             探検の時代

   あなた自身を見出す最良の場所は、古地図にあるかもしれません

                                                                                       ジェフリー・ジョンソン

 車道を進み義理の姉の家に着きました。長旅を終え車から出た時、玄関の階段に出迎えた彼女は私を見てすぐに、脇に抱えたものに目を向けました。怪訝そうな表情から一変微笑みながらこう聞いたのです。「それは道路地図ね。」正確に言えば、2003年のランドマクナリー道路地図で、既にl5年ほど前のものでした。

例え古い代物であっても、ケネバンクポートからケチカンへ、メディシンハットからモンテレイ、バトンルージュからハドソン湾へと全北米自動車旅行のナビにまだ十分に適していたのです。自分の地点と、行こうとする場所との位置関係や出発点と往復する道との地理的関係を把握する為、綴じた地図集を調べることがよくあります。

GPSではうまくできません。地図はまだ行っていない場所への進路を図示する大切な手段といえます。私がロータリアン誌編集長として始めた最初の1つは、オフィスの壁に世界地図を掛けることでした。その後3年間、非常に貴重なものとなりました。過去に北アメリカや西ヨーロッパの国境越を敢行したとき、道に迷った経験があります。

クイズショー『Jeopardy』でアフリカの国々がカテゴリーとして現れたら、うんうんとうならせられたことでしょう。しかし現在では、地図のおかげで全てうまくいき始めました。調査した個々のロータリープロジェクトや、行なった個々のインタビューでは、携わる自分が世界のどこにいるのかを正確に知るため地図を調べます。例え心の準備だけで行うとしても。

昨年、ウガンダでの新しいロータリー・ピース・センターについて記事の準備をした時、いつもの習慣で少々入れ込み過ぎだったかもしれませんが、その地域の闘争の歴史を詳細に調べました。そのうちアフリカのグレートレイク(ビクトリア、タンガニーカ、マラウイ、更に三つの湖に名前がつけられています。)が、注目すべき場所として現れ始めました。

確かに、これら湖をある程度知ってはいましたが、地図でエリー湖やスペリオル湖ほど容易く指せることはできませんでした。しかし今は、湖だけではなくそこから流れる川、これら湖上に国境がある国々を眺めることができます。カナダやアメリカのグレートレイクと同じ程、アフリカのグレートレイクを理解できると考えるのはばかげています。身近だったその湖は少年だったときから泳いでいて、以来自信を持って案内できますし、湖岸線についていくらでも話せます。

それでも目を閉じれば7,8カ国を通過してトリポリの海岸から南へ旅することを想像できます。その国の正式名も今ならできます。最後に大西洋とインド洋が合流するアガルハス岬に到着すれば、そこを超えて2400マイル離れた場所には南極大陸。そのギャップを埋める為、想像を広げるにも骨が折れる程ではあっても。平面的に地球を表示する為、オフィスに掛かっている地図はメルカトル図法を使っています。

教室等に飾られる身近な世界地図の描写法であり、何世紀にもわたって海図としても使用されています。世界のこの特別な景色は、16世紀のフラマン人宇宙地理学者ゲラルドゥス・メルカトル、当時の最高地図作成者である彼によって進歩を遂げました。その多言語を駆使する碩学者は、一括りの地図群を言い表す為に、地図帳という単語を使う最初の人でした。さらに、彼は天球儀を含め地球儀の職人として有名でした。

墓の墓碑銘では、内から外から天体と地球を描いて見せた人物として彼を賞賛しています。メルカトル図法は探検時代のナビゲーターにとって恩恵でした。地図とコンパスを使い未知の海を航海する時、直線のコースを定めることができました。しかしながら、その恩恵の大部分はコストに繋がったのです。「全ての地図は嘘をつきます。」と、ジョン・レニー・ショート、ボルティモア群メリーランド大学地理学教授が言っています。

「除外し、一般化し、誇張しています。」メルカトルの地図の嘘、そのひとつはひずみです。地球を分割する見えない経線を平行に並べるため、メルカトルは北極、南極でそのエリアを拡大させなければなりませんでした。したがってメルカトルの地図では、赤道から南北方向に進めば、大陸は実際より指数関数的に広がります。グリーンランドは結局14倍程拡大され、アフリカと同じくらい大きく見えます。

近代の地図製作者は、メルカトルによって生ずる誤認を修正することを試みました。ドラマ、『ウエストウィング』2001年のエピソードで、ホワイトハウス報道担当官C.J.クレッグ(アリソン・ジャニーにより演じられた)は、1970年代ドイツ人歴史家アルノー・ピーターズにより奨励されたその世界地図を最初に目にします。各国の地球上の実際のサイズや位置を想定できる世界地図を見せる前に、地図製作者協会の代表は次のように論じました。
「メルカトル図法は何世紀もの間、ヨーロッパの帝国主義姿勢を助長し、第三世界に対する人種的偏見を創りだしたといえます。」「何だっていうの?」C.J.は言います。「そこがあなたが全生涯を暮らしてきた場所なのよ。」私の好きな地図(1つ選ぶとすれば)は、365年前にジャック・ニコラス・ベリンという名のフランス人地図製作者によって作成されました。

メルカトルと同じく、ベリンは学者ミレーユ・パストゥールも述べたように常に本棚に囲まれた人物でした。「彼の方法は、既存の地図、航海日誌、旅行本を集めることから始め、それらを統合する試みをするというものでした。」現場の観察不足にもかかわらず、ベリンの地図はその正確さのため激賞されました。

1803年には、トマス・ジェファーソン大統領がナポレオン・ボナパルトから取得した広大なルイジアナ領の正確な境界を決定しようとした時、米国大臣はベリンの地図の1つを調べました。その地図は39年前のものでした。ベナン自身は1772年に亡くなっていたのです。私が賞賛するベリンの地図は、『ニューフランス(カナダ)西部』として残されています。何年も前、法律文書を校正して夜を過ごした時、古地図を研究することができました。

それは有名なシカゴの法律事務所の壁に豪華な金めっき枠に納められて掛かっていたものです。地図は細部に渡って豪華で、見事に彫られ色づけられ、オンタリオ東湖岸からスーペリア西湖岸までの領域を包含していました。そして北アメリカ大陸において初期に奥地への連絡路として役立った川の幾つかを示しました。

ミシガンの南岸には、のたうつように流れるシカゴ川が描かれ、その向こうにミシシッピ川へのアクセスを提供した連水陸路があります。親切なイリニ族の一人が1673年に探検家ルイス・ジョリエにそのルートを知らせました。振り返ってみるとその名も知らぬイリニ族の人物は、自らにその情報を残しておきたかったかもしれません。

とりわけベリンの地図は、北米大陸のインディアンによって占有されていた土地を識別しています。イロコイ族、エリー族、フォックス族の旧国または国。さらに、オタワ族とヒューロン族の旧国が示されています。これら在来民族は既に強制的に退去させられていた為そう表示されています。恐らく、モントリオール郊外でジョリエのカヌーをひっくり返したのは予知と復讐の神だったのでしょう。ちょうど帰途への時のことで、遠征日誌も失ったのです。

今日ベリンの地図を調べる時、(自宅に余り綺麗とは言えないコピーを掲げています。)それが人生の旅を図示していることに気づきます。トロントの少年時代(ベリンの地図ではTejaiagon)から、シカゴの成人期まで、というように。ジョリエのように、人生の途中でいろいろなものを失ってきました。かつてはコンパスの使用に熟達し、一目で地形図を判読したり、星座名によって星座を識別できたのに。

私が今必要とするものは、忘れられたスキルの回復を手助けする地図です。あるいは困難な時代にあって、ずっと安全で危険のない将来への通り道を保証する地図。もし未来に点を結んでいく手段として昔の自分に戻れるなら、素朴な空飛ぶ少年からその方向を得られるかもしれません。「そう、右から2番目の星を目指して、朝までまっすぐ飛ぶんだ。;『ピーターパン』より」

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC


Rotarian7月号
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                 Rotarian7月号


            人生の明るい面に

    希望の光を見出せば、行動すべき道を照らしてくれます

                    ナンシー・シェファードソン

 昨年の秋、高校で有権者登録活動を手伝いました。最初の1時間は何事もなくゆっくり過ぎましたが、どうにか2人の学生を登録させることができました。2人目の学生が終わった後、私は次のように言いました。「さて、2人でも誰もいないよりましよ。」そしてその後、次に聞くコメントを待ちます。そのコメントがいつ来るか常にわかっています。人は信じられなさに唖然とするか、疑わしそうに距離を置いたようにこう言います。

「あなたってどんなことにも希望の光を見つけられるのね。」この困難な時代では、しかしながら希望が信じられない人の割合は、増加しているように見えます。私はそういった反応を理解しています。時々、ポジティブさが自分でも極端かなと思えます。今トラブルと悲劇が至る所であり、私たち多くは以前より多くの苦難を経験しています。

病気、経済的苦悩、家族の問題。しかし意識的な積極性と呼ぶものを実践することで、ずっと幸福で生産的で健康で、穏やかな気分となることをある時発見しました。言いかえれば、モンティパイソンの歌のように人生の明るい面を常に見ることが選択できたのです。全般性不安障害の人がポジティブな考えを選択すれば以前より不安を覚えないことを学べ、ポジティブに考えるスキルを教わることで、医療従事者の間にもストレスが軽減されることが研究で示されました。

エール大学公衆衛生学部での4,000人超の50代以降に関する研究では、老化についてポジティブな見方を持つことが実際寿命を延ばす手助けとなることが最近分かりました。意識的な努力を通じて見解を変えられるなら、なぜ多くの人々がそうしないのでしょう。ピッツバーグ州カーネギー・メロン大学心理学教授マイケル・シャイアーは、人は人生にポジティブかネガティブとなる傾向を普遍的に持っていることを知りました。

「しかし、その特性はある人生の変換期を通過する時、常に変化します。」言い換えれば最悪な時こそ、ストレスに適応できるか、そうではないか、その方法を学ぶことになります。選択した方法次第で、ずっと楽観的に、逆にかえって悲観的になる可能性が起こるのです。」ストレスを受けることは20代だった時にはひとつの生活パターンでした。大学院でのパニック障害。父は癌との20年の戦いの後53歳で亡くなり、私は最上の教育を受けながらも行き詰った研究と格闘していました。

不満を言うことが生活パターンになりました。そして当然、それは私の前途を支援する訳もなく、人に慕われる手助けにもなりません。就活面談ですすり泣きに終始した時、私は生活を変えなければならないと初めて理解しました。見かねた友達がノーマン・ビンセント・ピールの『プラス思考のパワー』を読むように勧めてくれたのです。その本は私が生まれる数年前に出版され、そのときでさえ古本の部類のもの。それでも読んだところで何を失うのかという精神状態だったのです。

牧師であるピールはトラブルに巻き込まれた人から聞いた話を引き合いにし、ビジュアル化、肯定的に言葉に出す、祈りといったテクニックを推奨していました。当時日記に書いたメモにこう記しています。「考えを変えれば、世界を変えられる。」今では少し陳腐な印象を与えますが、しかし私はそこに心を開いていました。さらに、プラス思考を増強させるために感謝日記をつける、個人的な強みをリストに挙げる、毎日親切な小さな行為を実践するといった、より現代的な情報も学びました。

ドキュメンタリー映画『Inner Worlds, Outer Worlds』、では、瞑想が私たちの考えが脳で創り出す生理学的変化を促し、神経可塑性と呼ばれる発想を強化すると言っています。それはすべて卓越した大きな考えです。しかし、多くの良き習慣のように長期に渡って忠実に行うには困難が伴います。代わりに、私は小さく出発しました。まず常に自分がネガティブに考えていると感じたら、目の前の状況についてポジティブな面に集中しようとしました。

締め切りに不安を感じた場合はいつも、もしその結果がうまくいくならどのように感じるかを想像しました。ぐずぐずと延ばしていれば、今始めれば自分に報酬を約束しました。いつもそうしていたかって?当然むり!しかし、大抵の場合そう努力しました。それは少しずつ私の人生の選択を形作ったのです。自身のビジネスをスタートさせ、政治職に立候補し、ロータリー衛星クラブを成功裡に擁護する勇気を見出しました。

その後仏教のマインドフルネス瞑想に偶然出会います。具体的には、無意識のまま心の表面下に伝わってくるものに集中することを学びました。心が失敗するだろうと話しかけてくるなら、集中を成し遂げるには道半ばということです。その迷いの原因はネガティブな声を聞くことにあり、意識的にさあ始めるぞと命じるべきです。次に深く息を吸って、状況のポジティブな面に集中します。思いつく事柄自体は重要ではありません。

只ネガティブな考えの流れを中断するだけで、多くの場合ポジティブさに近づけるに十分なのです。ストレスを感じる場合、その瞬間に何を思い、感じるかしばらく集中してください。そしてその感情を引き起こすものに焦点を合わせるのです。次に、あなたを悩ましているもの全てに何ができるかを判断してください。自分でできることが何も助けにならないと知っていれば、繰り返し実践することで心の外へ状況を置くことができます。

母はよくそれを「蛙の面に水」と呼んでいました。それによってコントロール不能なものに心配しないことで精神的な強さを保てると教えてくれたのです。他方で処置を講ずることにより解決に近づくことができれば、それは心配を脇に置いて何かをするきっかけとなります。予定を立て、取り掛かって下さい。何かをやり遂げてください。どんなことでもいいのです。

特に瞑想の中で処置を講ずることに対して自分に祝福を挙げれば、それ自体が報酬となります。楽天的態度にコメントする人達は、私の行動志向の思考方法をただ傍観的に認めているだけだと思い始めました。例え世界の問題を解決することができなくても、そこをよりよい場所にするためいつだって何かをすることができるのに。楽観的なことで、人生で出会う大波をうまく乗り越えられ、他の人なら躊躇して踏み入れない場所に飛び込むことを可能にしました。ひとつの例があります。

私のクラブは、スケジュールの重なりの為最も活発なメンバー1人を失う難題に直面していました。その時国際ロータリーは衛星クラブを奨励し始めていました。他のクラブではその活動の成果は様々でしたが、私はこう発言しました。「やってみましょうよ。成功するかもしれない。」衛星クラブを始めた後、私たちは例会出席にも四苦八苦しました。ある時姿を現したのは、たった3人のみ。二人は親クラブのメンバーでした。他のメンバーはやめたがりましたが、私は楽観的にこう指摘して揺るぎませんでした。

「3人は誰もこないよりましでしょう。」(ここであのパターンを感じますか。) やがて公式クラブとなるのに必要な8人のメンバーに発展していきました。変わらず励まし合いながら私たちはやり通し、地区に最初の衛星クラブを首尾よく送り出したのです。無分別の楽天主義者と呼んでもらっても構いません。しかし、依然よりずっと心穏やかで、幸せで、大抵うまくいくことが分かっています。何かがうまく行かないと、自分を責めることがまだあります。

しかし、自尊心を打ち砕くような自責の念を繰り返す、そんなスパイラルに落ち込むことにはなりません。私は責任を受け入れて行動し続け、よりよい次を目指します。大きな問題に直面すれば、それは控え目なゴールのように見えるかもしれません。しかしやってみるまでは、どれ程達成できるかなんて誰も分からないでしょう?

ナンシー・シェファードソンは、フリーランスのジャーナリストであり、イリノイ州レイクチューリヒRCのメンバーです。

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC

 


Rotarian6月号
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               Rotarian6月号
   唯一無二に必要なこと、それは人間的であること

  他者を非人間化する傾向は、私たちの本質に潜んでいます
  どうすればそれを回避できるでしょう

                フランク・ビュアーズ

ごく最近のある日、自宅近くの狭い通りを運転していた時のことです。目前を2人のサイクリストが行く手を遮っていました。それもサイクリスト達なら、そうしがちな、ゆっくりしたスピードで。走行しているうちに、だんだん腹が立ってきました。なぜ道の隣のバイクレーンに行かないのか。通過できるように、なぜ少し場所を譲らないのか。なんて言う人達だ。結局彼らを迂回し、その後冷静な気持ちになりました。

そこであの時の自分の反応に少し驚きを感じました。というのも私自身が自転車愛用者であり、当時の心理はドライバー側の傲慢さだと責められるものだったのです。あの時、彼ら乗り手側に自分を見出していませんでした。相手の心理が想像できなかったのです。例えて言うなら2輪に乗る外来種のように見なしていました。その状況は私側と彼ら側の間に乗り越えられない線を引いたようなものでした。

これは心理学上の「非人間化」として知られている思考過程です。極端に言えばまさにナチの死の収容所、カンボジアのキリング・フィールド、あるいはルワンダの検問バリケードで起こったものに似た現象といえるでしょう。しかし実際、私たちは毎日よく考えもなく、こういった線引きをしています。オーストラリア、メルボルン大学心理学教授ニック・ハスラムは、非人間化に関する代表的学者の1人です。いかにドライバーがサイクリストを非人間化しているかを、ハスラムと同僚が400人以上に渡って調査しました。

1つの典型的な結果では、非サイクリストの55パーセントはサイクリストを100%未満の人間と見なしました。(サイクリストの30%もそうでした。)「何人かは他のドライバー以上にサイクリストは未熟で進化のない生き物だと言いたがる傾向にあります。」と、ハスラムは言います。人間性を失わせることについての初期研究では、人が他人にどんなに恐ろしいことができるか理解しようとして、焦点の多くは少数民族のグループに向けられました。

最近の研究では、非人間化の態度は誰に対しても向けられる可能性があることを示しています。例えば女性、病人、移民、精神障害のホームレスに対して。研究者は、非人間化しているか否かを二者択一で予想できないと立証しました。非人間化にも程度と種類があるからです。ハスラムが唱える動物的非人間化では、異なるグループのメンバーは、人間でありながら動物に近いという感情に焦点を当てています。

彼らを喜び、怒り、恐れ、驚きのような基本的な感情を持っているとは見なしても、誇り、賞賛および良心の呵責のような複雑な感情を持っているとは見なしていません。そして彼らを人間としての本質に欠けていると見なすか、あるいは進化した我々によって監視する必要がある生き物と見なします。ハスラムのモデルでは、もうひとつの非人間化の分類を機械的非人間化と呼びます。そこでは私たちは人を単に人間の本質そのものではなく人間性全体を欠く者と見なします。

自分より劣った者としてではなく、完全に異なった対象という意味で。例えば機械やロボットのように、冷酷な利己心から振る舞う空虚な物体のように見なします。私たち自身と他者の間に線を引く場合、時に無頓着にそうします。そうでなければ他者を頑強な壁のごとく心に描きます。それは、あたかも他者の人間性を下げる為に、内側にあいまいなスイッチを持っているかのようです。こうして人間性が下がれば下がるほど、他者の心や知性を想像することがますます困難になります。

ハスラムは、こうなる多くの理由があると言います。「時に私たちは相手を躊躇なく傷つける為、非人間化します。しかし、これは最も一般的な理由ではないと考えます。」「より多くの場合、私たちが属するグループを他のグループより肩入れする一般的人間性の傾向の一面に過ぎないのです。人は、仲間集団を部外者集団より人間的であると見なす傾向があります。これは、ひとつのグループとの強いつながりを促進するという、進化してきた機能に適うかもしれません。」時間の霧では、私たち自身のグループを他グループより人間的であると見なすこの傾向は、対立的な世界の中で生き残ろうとする小さな種に対して生存の恩恵を持っていたことでしょう。

現在では小さな種のまま暮らしていくことは勿論できません。しかし、私たちの一部は自分のグループの境界を見出したがります。そのグループを守るために、他のグループより人間的と見なす為に。例えそんな状況ではないと理性では知っていても、です。人間性を無視する力はかなり深い意識の中で働くことが、脳内で観察できます。2006年にプリンストン大学の科学者スーザン・フィスク、ラサナ・ハリスが、ある研究を公表しました。そこでは22人の学生を機能的磁気共鳴映像機(fMRI)にかけました。

その機械は脳への血流と脳内各分野の活性化を観察できます。学生が映像機に入っている間、中流階級、障害者、ホームレスといった、一定の社会的定型に適う人々の持ち物や写真が示されました。ほとんどの写真は、社会的認知に使用する脳の部分を活性化しました。これは私たちが他者に関して考える場合に起こる現象です。しかし、2つのグループ(ホームレスおよび麻薬常用者)に関しては活性化を引き起こしませんでした。彼らを人間として捉えていなかったのです。フィスクは予想を立て、ステレオタイプ内容モデルと呼ぶ非人間化に関する理論を展開しました。

そこでは私たちが出会う人々を測る2つの基準があります。『温かさと有能さ』「あなたになじみがない人に関して何を知る必要があるでしょう。」「最初に、相手の意図が自分にとって良いか悪いかを知る必要があります。その意図が良好な場合、信頼性がぐっと増します。そうでない場合、信頼性は増えません。その後、相手が意図に沿って行動できるかどうか知る必要があります。何故ならその意図に沿って彼らが行動できないなら、あなたにとって重要な人間ではないからです。それは有能さに起因します。」これらの2つの手段は、私たちが出会う人を分類する4つの象限を備えた正方形を形成します。私たちに似ていると考える人は、温かさと有能さを持っています。

私たちが羨む人は、有能であっても、温かさがない(ウォールストリートの銀行家を想像してください)と見なします。温かさがあっても、有能でない人には憐れむか同情します。(例えば身障者または高齢者。)そしてどちらでない人は全く他の何かと見なします。大雑把にいえばフィスクのふたつのグループは、ハスラムの機械的非人間化(冷淡/有能な)と動物的非人間化(温かい/無能な)に相当します。

しかし彼女は、嫌悪だけを感じる完全に非人間化したグループを分類に加えます。私たち自身のグループと他者グループ間に引く線の景観は全く単純ではありません、しかし、研究者はそれを図式化することに取り掛かり始めようとしています。次に必要なステップはその線をぼかすか削除する方法を考え出し、それにより人間性の円を拡張することです。人々を再び人間化すること。この活動の幾つかは国際協調主義の高まりと共に20世紀に行われました。そこから国連、赤十字、人間性について深い理解を促す他の組織とともに、ロータリーが育っていきました。

世界人権宣言第1条にこう明言されています。「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。 人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」それを必ずしも実行するとは限らなくても、そうであることを熱望します。私達は狭い範囲での種の戦いを繰り返しつつ長い道のりを辿ってきました。しかし、常により豊かな進歩がなければなりません。フィスクは非人間化を逆転する1つの方法を見つけました。


その背景にある考えは単純です。他者の観点から事態を見ることを自身に強いること。これを実証する為、非人間化していた人が特定の野菜を食べることが好きかどうか、被験者に例のマシンで問う研究を行ないました。この奇妙な質問は深遠な効果があったのです。被験者の脳内の社会的認知分野が、再び活性化しました。非人間化した人を人間と見なさないまま、何が好きかを想像することは不可能だったのです。「何が他者の頭の中で起こっているかを想像することで、相手を再び人間化できます。」

フランク・ビュアーズは、『狂気の地理学』の著者でありThe Rotarian誌への準定期的寄稿者です。

翻訳 津坂 守英@名古屋城北RC

 


Rotarian5月号
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Rotarian5月号


ロータリー財団グローバル補助金でコスタリカ地元女性グループは、地域の将来を豊かにする為エコツーリズムを使っています。

ダイアナ・ショーバーグ


 コスタリカ山岳地帯中央のツリアルバという小都市。そこから東へ車で1時間も進めば、でこぼこの砂利道を下っていることでしょう。狭い橋を渡れば、モレジョネスという小さな町が見えてきます。そこはカレン・ガルシア・フェンテスや妹イーヴリンがコーヒー農場で育った場所。父親の所有地であり、祖父からこの土地を継承してきました。姉妹はハイティーンの時、町を出て大学に向かいました。華やかな都会へ移ることは、世界中の田舎に暮らすティーンエイジャーの夢です。

しかし大学卒業後、姉妹はモレジョネスに戻ることを決めました。自宅に近い仕事を見つけることは困難を極めましたが、カレンは輸出用の蝶を育てるコスタリカでのビジネスを耳にしたのです。彼女は同様の会社を立ち上げるのに何が必要かを学び始めました。「私たちは自分たちにふさわしいプロジェクトを望んだのです。」と、イーヴリンは思い出しています。最初、父親はその考えが良いとは思えませんでしたし、母親も蝶を扱うことに不安を感じていたのです。

しかしカレンは熱心に働き、そのビジネスに集中しました。イーヴリンも彼女に加わり、母親も今は彼女らと共に仕事をしています。カレンはマーケティングとソーシャルメディアに携わり、父親は蝶ビジネスに対しコーヒー農場の場所を更に広く譲り渡しました。「このビジネスは家族をひとつにしました。」田舎の農民の従来の認識は、いつかここを出られる為に子供達は勉強する必要があるというものでした。

しかしガルシア姉妹は故郷に戻ってきました。「私たちは農場とコミュニティーに存在した旧来のサイクルを断ち切ったのです。」午前半ばの太陽がガルシア姉妹に降り注いでいます。その時彼女らはカラフルに描かれた看板『ホガー デ マリポサ;蝶の故郷』の隣で微笑みポーズをとっています。アメリカからやって来たカレン・マグダニエルが彼女達の写真を撮っているからです。「あなた達のパンフレットにこの写真を使うのはどう?」彼女はそう言った後、蝶保護区を見るため土の階段を登り、泥だらけの小道を歩いていきます。

テキサス州デントンRCメンバー、マクダニエルはモレジョネスにやって来て、コスタリカ、カルタゴRCとパートナーを組み、認可されたグローバル補助金の直接的効果を検証しました。その補助金事業には職業訓練、環境に配慮したアクアポニクス、環境にやさしいエコホテルを扱う3つのコンポーネントがあります。とりわけこの補助金は、ガルシア姉妹と他の地元女性への支援を提供しています。伝統的生活様式と同様にエリアの熱帯雨林、滝、蝶、鳥観察等魅力ある体験が待っています。

そこにビジターを引きつける為、姉妹は観光事業協同組合を最近立ち上げました。ロータリアン達は熱帯農業研究高等教育センターとパートナーを組んできました。それはツリアルバに本拠があり、CATIEと呼ばれ地元女性達と何年も協力し合って活動しています。保護区では、何百もの蝶が優雅に飛び回っています。懸命に求愛するがごとく、ビジターの肩、手、背中に舞い降りて、強引なほどの親しさを見せながら。華やかなオレンジ色と黒色が映える蝶がエリサー・ヴァルガスの唇にとまりました。

彼はCATIEで持続可能な観光事業を研究対象とする教授です。「私に恋をしたらしい。」蝶が彼にキスした時、そうジョークを言いました。地元リーダーによれば、20世紀後半までモレジョネスはコーヒーとサトウキビだけの場所でした。しかし物価が20年前に急落し始めた時、人口の半分は生活する新しい方法を見つける為ここを去っていきました。ただ、それが地域密着型の観光事業に対するアイデアが根付くきっかけとなったのです。

リオ パクアレの近くに位置するその場所は地球上で最も有名な急流の早瀬があり、言葉を無くす景色を堪能できます。2011年にはモレジョネスがラフティング世界選手権を主催しました。また翌年、数人の地元民が観光産業強化支援の為CATIEに参加し、直後にはヴァルガスと彼の学生達も関わりました。アイデア、エネルギー、ユーモア豊富なヴァルガスは、ロータリアンと地元女性達の間を、よどみなく流れる重要な水路の役目を担っています。

彼は控え目で真面目なマクダニエルに対する完璧な補佐役に徹しています。サウジアラビアで生まれたマクダニエルはスイスとアメリカで教育を受けました。彼女は3Mで働き、ほぼ世界中でそのキャリアを積んでいます。引退後そういった国々に暮らす間に、出会った人々を支援する2つの非営利団体を、カンボジアおよびインドネシアに設立しました。

インドネシアで子供達と一緒に行った不毛の水汲み。課せられた子供達が汚染された水を飲むことで体調を崩すこともありました。支援方法を見出すことに苦闘していたその時、誰かが地元ロータリークラブと連絡をとることを提案しました。ジャカルタ、シランダクRCが参加を申し入れ、マクダニエルがそこに関わったのです。その後2017年にはデントンRCに入会し、エコツーリズムグローバル補助金の先頭に立つことになりました。

今までロータリーと一緒に活動した経験のないヴァルガスは、何を期待すべきか、そしてロータリアンが本当に約束をやり遂げるかどうかも分かっていませんでした。「その後私はマクダニエルに出会いました。彼女は要求し、それを地元に引き渡します。そして口に出したことをやり遂げます。ロータリーチームとの出会いの後、彼女が違いを生ませたい人達を引きつけていることを理解しました。」

アンジー・モントーヤ・フェルナンデスの父親はコーヒー豆摘み職人でした。しかしそれは季節労働の仕事であり、といっても家族と共に暮らしたかったので、2,3時間も遠く離れた首都サンホセで働きには行きたくなかったのです。代わりに彼と妻は英語を学び、ツアーガイドになりました。「子供の頃大きくなったら、私もツアーガイドになりたかったの。」そうアンジーは話しながら、コスタリカ最大のコロンブス以前の遺跡発掘現場、グアヤボ国立記念碑入口に立っています。

案内地図は彼女の後ろに立ち、傍には廃墟への小道がシダ、ツタ、苔で覆われた熱帯雨林の中へと続いています。毎年2万人程が記念碑を訪れます。アンジーと彼女の家族は観光客を案内して回るフリーランスガイドのメンバーです。他の中小現地企業を支援するために、アンジーの母親ローザ・フェルナンデスには、観光客がそのエリアにいる間、提供できるサービスについてアイデアを持っていました。

観光客がグアヤボツアーを組むために電話すれば他のオプション、例えば農場ツアー、ロッジ泊、料理教室といったものを予約する機会が持てます。「コロンブス以前の歴史が好きです。しかし、私たちは他の場所にも観光客を連れて行く必要があります。」そこにRETUSと呼ばれる女性観光事業協同組合が関わっています。(ツリアルバ持続可能性女性観光起業家ネットワークの略)「大きな旅行業者に挑戦するには、小さな旅行業者や従事者をまず信頼することが必要です。」とヴァルガス。

「RETUSは、こうすることで地元女性に機会を与えることを望んでいます。」観光事業協同組合は、CATIEでヴァルガス直属の大学院学生と共にアウトリーチプロジェクトとしてスタートを切りました。「私は学生が持続可能な観光事業について単に本を読むのではなく実践することを望んだのです。」ヴァルガスはアウトリーチ活動のための予算に資金を持ち合わせていませんでしたが、研究のために何とかかき集めることができました。

そこでデントンで、ノース・テキサス大学との合同でのマスタープログラムとして、学生達は地元の町や村に住む人々と活動をし始めました。例えばモレジョニスではワークショップを開き、地元民がコミュニティーに関してどういったものがユニークなのかを話し合う場を設けました。学生達はその会話をコミュニティーの遺産を披露する体験ツアーのアイデアに変えました。ヴァルガスは観光業で既に働いていた6人の女性と連携しています。

「私は彼女達をマドリナスと呼んでいます。」と彼。それはゴッドマザーという意味。女性達の中にはシングルマザーもいれば、多くの子供を育てているメンバーもいて、例え教育を受けなくとも英語を学んでいました。そのひとりローザ・フェルナンデスは大きな業績をなして、他の女性も良い模範となっています。ヴァルガスは観光業ネットワークを形成する支援をしたいとマドリナスに伝えました。

しかし、その役割を担う女性を選ぶことは任せました。彼女達を女性ビジネスマンと見なしていることを伝え、コミュニティーで何を実現したいのか、その夢が現実となる支援はどうすればできるのかを心に描くように助言しました。「彼女達に候補となる女性を連れてくるように言いましたが、これはプロジェクトであるとは口に出しませんでした。」とヴァルガスが言っています。「これはひとつの活動だとこう言いました。

『自らを救う為だけの理由でRETUSの一員にならないでください。他の女性達を支援したいという気持ちで、RETUSの一員になってほしいのです。』」創立時のマドリナスの3人は、そこに関わることを決めました。そして観光業協同組合の初期の段階に参加する中で、その組織は18名まで膨らみました。女性達が学ぶことをとても熱望したものは、経営技術、経営管理、会計、マーケティングでした。

確実にそういった分野にロータリアンはエキスパートだと言えます。マリエロス・サラザール・カベザスは、両手の間で粘土の塊を叩いて練り込んでいます。彼女の背後にある明るいプリズム調の色彩のペンキと、それとは対照的な色合いの泥が入ったバケツが、陶器製造スタジオの至る所に散在していました。毎年数度サラザールは近くの山に向かい、土を掘り起こし、粘土が分離するまで漉して水抜きをします。

ポット、ボウル、貯金箱、キリスト生誕場面、他のユニークな工芸品を作るのに必要な粘土を得るために、その水抜きプロセスが1年以上かかる場合もあります。今そういった作品が彼女のスタジオの棚に並んでいます。サラザールは、クラフトフェアでマドリナスの二人に出会い、観光旅行業組合に加わるように依頼されました。「私はその相互作用が気に入っています。

これが大きな機会であると信じます。私たちは多くの支援を用意しています。」その支援は、グローバル補助金からの資金提供により可能になった研修ワークショップの中で生まれました。ほとんどのクラスはCATIEの管理棟3階にある重役会議室で開催されます。財務関連の研修で、サラザールは作品に対して対価をどう請求するか算定する方法を学びました。

今彼女は2キロの粘土から始めて、労働コストを決める為ひとつの作品に関わる時間を記録しています。サラザールは陶磁器を売った後にマクダニエルに受領額等を書いて送ります。授業の1日目に注目すべきことは、全出席者が出納帳と売上原価財務シートを受け取っていることです。

「私たちは出納帳について、それはどのように作用し、そのことがなぜ重要を説明しました。」と、マクダニエルは言っています。「今、彼女達はクライアントの名前と連絡情報を得ることで、メールによって繋がりを切らさないようにできています。」協同組合の女性達は、英語を学習したいとマクダニエルに伝えました。そこで毎日のワークショップには、英語ゲームを始め、デントンレイクシティRCメンバー、キャシー・ヘンダーソンによるエクササイズがあります。

彼女はデントンで不動産業を営みつつ第二言語としての英語を教えています。「ゲームの賞品に香水サンプル、スプレー、リップバーム、ローションを持っていきました。」と、キャシーは思い出しています。「そしてキャンディーも。特別のお気に入りはライフセイヴァーズミントでした。」女性達はアプリWhatsAppで活動し続けるためにテキサスRCロータリアンとペアになりました。

「彼女達は驚かされる程勤勉です。」と、ヴァネサ・エリソンは話しています。彼女はデントンイブニングRCメンバーであり、地元女性にマーケティングとソーシャルメディアを教えました。「彼女達には観光客にとって魅力的な多くの文化知識があります。私たちは、それを差し出せるように支援するためここに来たのです。」マクダニエルがスタジオの中を歩く間にサラザールはプロジェクトが、関わる女性達やコミュニティーにどれほど役立っているかを伝えます。

現在サラザールは、週に二度スタジオを清潔に保つ手助けとしてひとりの女性を雇う余裕ができました。したがって、その女性も仕事を得ています。そしてワークショップおよびグローバル補助金の恩恵は、他の場所でも同様に明らかになっています。ヴァルガスと彼の学生達が数年前にモレジョニスで持続性評価を実施した時、自らの観光事業計画はあるものを除けば持続可能だったことを見つけました。

地元民は、食事を予約したゲストにティラピアを出していました。その魚は他の国々からのものでした。ヴァルガスと学生達はティラピアに対する地元の調達源を調査しました。しかし輸送に伴う行程は、ホストが一度に必要な新鮮な3、4枚の切り身を得るには余り適してはいませんでした。以前ヴァルガスには、アクアポニクスについての経験がありました。

そのシステムは栄養分豊かな水で植物を育てる水栽培法と魚養殖を組み合わせたもので、それが解決になるかもしれないと気が付いたのです。彼はロータリアン達にその考えを提案し、グローバル補助金に4つのアクアポニクスを含めることになりました。そして活動する3つの地域のそれぞれとCATIEに当てられました。地元ボランティアと同様にテキサスRCおよび地元カルタゴRCのロータリアンがシステム構築に協力しています。

「人里離れた地域に自分で入り地元民に会う機会を得、支援することができたことが喜びでした。」と、グローリア・マルガリータ・ダビラ・キャレロ、カルタゴRCメンバーが語っています。共存できるように魚の数と植物の数の間に絶妙なバランスをとれれば、プロジェクトの段階では小規模でスタートできます。「私たちは活動の為のテクノロゾジーを望んでいます。」と、ヴァルガスが言っています。

「私たちは誤った期待を抱かせたくありません。」協同組合は、これは調査プロジェクトであり表立ったことではなく、システムが完璧かどうかを確かめるために1年間様子を見てほしいと伝えられました。その行程が今年後半に無事終了したとき、初めて女性達はこのシステムを望む他の住民に職業訓練ができたのです。ブライアン・グレン、元消防大隊長およびデントンレイクシティRC会長エレクトは、プロジェクトの開始を支援しました。

彼は職業の中で水圧と流水管についてのエキスパートであり、その知識がアクアポニクス・システムに効果的に機能しました。「それは私たちが消防署で使用したものとは異なる規模でしたが、水圧の概念は同じく当てはまるのです。」加えてグレンは、ここ数年にわたりパートタイムの仕事からハンマーを振るスキルにも長けていて、そのことも役立ちました。「一旦変化が生まれれば、ロータリアンがスポンサーとなってアクアポニクスガーデンに必要な装置一式を作る計画ができます。」

マリア・ユージニア・ブレネス・アラヤは、実験システムの1つを受け取りました。グアヤボの彼女の自宅で、彼女と娘イダリ、アリシアは、正面にRETUSのロゴ、袖に自分の名前のついたお揃いのシャツを着ています。家族は家の裏側で観光客用ホームステイを提供し、かわいらしい寝室を2室用意しています。ゲストは、アクアポニクスガーデン、家族の野菜畑について学べます。野菜畑は盛土の列で作られた従来の菜園で、家の正面には、パーマカルチュアガーデンがあります。

それは農業に対し現地化され、生態学的に意識を置いたアプローチをとったものです。「私はちょっとした考えで始めました。そしてロータリアン達とトレーニングに出かけた時、私は他に実行すべき考えに気づきました。」と、協同組合会計でもあるマリアが言っています。子は親を映す鏡。彼女達がゲストに宿泊を提供して以来、18歳のイダリは、おいしい食事を提供する考えがありました。

今彼女はケータリング・サービスにより伝統的料理ツアーを提示したいと思っています。ガルシア姉妹のように、イダリは遠く離れた街へ移るのではなく、故郷近くに留まる方法を見つけることを望みました。庭を見下ろすテーブルでは、マクダニエル、ヴァルガスらがイダリの用意したランチの前に座ります。遥か遠くに高くそびえる山々は息を飲むような背景を提供しています。食事は家の裏庭から採れた食材が主役であり、これも等しくすばらしい眺めです。それは見事なキャリアの始まりといえます。

彼女がCATIEのスカイグリーンの家に近づくと、マクダニエルがにっこり微笑みます。「とても綺麗。」これは1942年にキャンパスに建てられた最初の家でした。それ以来、様々な機能を発揮しました。従業員住宅、スペイン語学校、学生住宅として。しかし、当時は壊れかかっていて、水が漏れ、こうもりがいました。「昨年ここにいれば、シロアリの浸食したほこりで起きることになりました。」と、住宅管理人であるトロントの学生、リン・コバグリアが話しています。

この家を持続可能性ハウスと呼ぶヴァルガスは、荒廃しているこの家をもっと実り多きものにすることを長い間夢見てきました。ロータリーが参加した初期の段階で、マクダニエルはカルタゴRC会員と近くの町を旅行した時に、ここに留まることに決めたのでした。彼女は、団体旅行用のエコロッジとして、またゲストを歓迎するのと同様に、RETUSメンバーが出会い、職業訓練する為の場所としてこの家を改築し再利用する機会を見つめました。「マクダニエルは、実業家であり、全ての物事を繋いでいきます。」

ロータリアン達は持続可能性ハウス修復をグローバル補助金の構成要素にしました。7月に、テキサスRC会員とインターアクターはコスタリカRC会員、RETUS、地元ボランティアに加わり、修復作戦に参加しました。今日、シロアリ浸食による細かいちりが舞い落ちた天井は修理されています。ベニヤ板はオリジナルのサイディング材の壁を見せるために取り除かれ、特注の大窓は実験的ガーデンの眺めを提供してくれます。再配線された家は高速のWi-Fi機能を持ち、バスルーム、屋外キッチン、クリスマスの灯かりがつくテラス灯の下でアクセス可能です。

その家から働きに出る為誰かを雇い、近くの町で提供されているエコツアーを促進する計画もあります。「その家は、RETUSで働く全ての独身女性のために顧客を得る支援をするでしょう。」と、グループ幹事であるサラザールが言っています。「これは大きな機会です。私たちはこれを成長させる為ともに働かなければなりません。」マージョリー・モヤ・ラミレッツはガルシア姉妹の蝶の庭で始まったモレジョニスを巡るツアーをリードしてきました。

今彼女の家族の家にカレンや他の人々を歓んで迎えます。妹ルイサと共に、ロータリーの3週間に渡るビジネス・ワークショップで経験を踏んだモヤは、彼女、妹、母親が縫って販売するバッグを示します。協同組合の他の女性と同じく、モヤは様々な事業を「プロジェクト」と呼びます。その言葉は現況の経済状態を見渡す為に異なる方法でヒントを示してくれます。

「あなたが資金について地元女性と話す場合、それは自分たちにとって家族やコミュニティーに関わるものだと伝えるでしょう。利益を最大限にする伝統的モデルは、私たちが働くコミュニティーでは限界があります。私たちは社会的起業家精神について話さなければなりません。」カサドの伝統的コスタリカ人の食事でモレジョニス・コミュニティーセンターの1日が終了します。中身は米、豆、肉、サラダ。何人かの地域の子供達がグループに参加しました。

1人の少女は大学で観光事業を研究し、キャリアを積み家に戻る計画をマクダニエルに伝えます。カレン・ガルシアがその日の始めに言ったように、仕事を他の場所に探すためにこの小さな町を去るという若い世代のサイクルはなくなっています。食事の後、誰もが手を握り、輪になって座り、子供達が互いに助け合う歌を歌っています。

山々の後ろに太陽が沈む時、数人の少女達が立ち上がり、伝統的なダンスを踊り始めます。スカートが燃えるような赤い色で渦巻き、少女達は朗らかに微笑み、歌っている庭の上には踊るように舞う美しい蝶々が。その未来は、ロータリーからの支援で更に輝きを増すことでしょう。

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC

 


Rotarian5月号
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              Rotarian5月号

       父がメールを送る、そして娘もまた

  父娘にとって、ミドルスクールでスマホを使うメリットを話し合う良き方法

            スティーヴ・アーモンド、ジョゼフィン・アーモンド
 1年程前に妻と私は、12歳の娘ジョゼフィンにスマートフォンを与えることにしました。数か月間の苦慮の後にそうしたのです。何人もの親たちと話し合いました。彼らのほぼ全ての子供達がスマホにあっという間に中毒になることにストレスを抱えていました。結局娘はスマホを持っている私達や、友人と話し合う方法を求めていると感じたのです。でもその決定にまだ苦闘している状況でした。

そこで、苦悶する親のアカウントで書き込むより(iPhoneは子供達をどれ程スクリーンゾンビに変身させたことでしょう)、私は娘ジョジーとフランクな話し合いができないか尋ねました。スマホが彼女の生活や家族の活動をどのように変えたかを、テキストメッセージという自然な形で送信したのです。二人とも絵文字を文章から削除しました。

スティーヴ:
君は、初めはスマホを持つ考えに反対したね。なぜ?

ジョゼフィン:
思い出せば長い間スマホが欲しいとは思っていた。5年生や6年生の初め頃、皆と同じようにスマホが欲しいと頼んだわ。でもiPhoneがどのように親友やクラスメートにどう影響するか徐々に分かり始めたの。誰でもソーシャルメディアに夢中だった。そしてスマホを手にすることでの主な関心事の1つは、インスタグラム上で持てるフォロワーの人数で自分の価値を測ることに終始することだったの。

加えて人が自由な時間を話し合ったり、考えたりすることに使っていないことにも気が付いた。要するに退屈していると、スマホの話題が突然やって来る。話し合う度、顔の表情を電子画面で見ることが奇妙な気分に思えたな。「どんな種類のスマホを持っているの。」「スマホは持ってないよ。」「ええっ、本当に。」「実際私は望まないし、読書の方が好きだから。」

スティーヴ:
読書が脇に追いやられていることは悲しい気分だね。しかし、それが私たちの住んでいる世界だとも分かっているよ。結局それが君にスマホを渡した理由なんだ。何故なら此れまで友達は君との計画を立てるためにママのスマホに遠まわしにメッセージを送っていた。ママはメッセージを君へ渡し、応答を友達に伝えることになる。このプロセスを見守ることは、子供が互いの家に電話するか実際にやって来た昔の時代(またかと、溜息つかないでね)はもうないと感じさせるね。

君達の世代では、すべてはスマホを介して送られる。遊びの計画、招待、ゴシップなど。そうは言ってもママと私はそんな状況に我慢しようとした。私たちは8年生まで君にスマホを与えないという誓約にサインしたね。しかし君がミドルスクールで得られる経験の大部分の機会を逃すかもしれないと心配した。私たちは周囲のプレッシャーに屈服した、と思う。間違っていただろうか。

ジョゼフィン:
それは明らかに周囲からのプレッシャーだね。最近、確かにスマホなしでコミュニケーションが取れない。パパが誤りを犯したかどうかは分からないよ。第一に、私自身の居場所を整えることは快適な気分だといえる。同時にスマホはこの点での私の生活に必須ではないよ。結局、そうなることが分かっているし。今のところスマホは持って良きものだから、長い時間かけてもパパは私に与えることができたのかな。あるいは単に電話したり、メールを書くだけのまぬけなスマホを与えることもできたはずだね。

スティーヴ:
元々は折りたたみ型携帯を与えることだった。iPhoneを与えることが問題となるではと不安はあったよ。文字通り中毒性となるように仕組まれているからね。しかし、このままママの古いiPhoneを使っていれば、電話会社は君にもうひとつ電話回線を用意してくるだろう。それはたいした口実にもならない、と分かっているよ。しかし、いかに大企業が自社製品を使うように人に強いるかの良き例だね。

その後、電話とメールそして2,3の必要なアプリケーションを使うためにのみ使用することを約束して、誓約書にサインさせた。ゲームはなし。ビデオも。ソーシャルメディアはもちろん。夜は私たちにスマホを預けるといったように、他の基本原則を書き留めたね。君はこういったルールに従っている。間違ってなかったろうか?どう?

ジョゼフィン:
まあ、とても長いパパ好みの契約にあるルールには従おうと思ってるよ。メールを書く、写真、電話、バスの到着時間を伝えるアプリのためにほとんど使っているよ。昨日の朝、バス内を見回してみたら、大げさではなくどの子供達もスマホを手にしていた。そのほとんどがゲームかソーシャルメディアを使っていたな。もし私が同じ事をすれば、間違いなくもっと長い時間スマホに関わっているはず。実際に役に立つのはスクリーンタイムのアプリだよ。それは、私が1日当たりスマホをどれくらい長く使ったか伝えてくれる。

スティーヴ:
パパもスクリーンタイムで同じことをしているよ。そして、スマホでどれだけ時間を過ごしたかにいつもショックを受けている。その時間がまるで時の隙間に吸い込まれたような気がするね。パパの幼年期(まあ、君が再びため息をつくのが聞こえるけど)から私が思い出すことは、子供達が今よりずっと退屈していたということだよ。企業は私たちが種として残してきた最も価値ある資源は、注意を向かせることだと理解してきた。そこで、私たちの注意を引くデバイスを創成した。その結果、私たちは退屈しなくなったけど、周りの世界に十分注意を払っていない。

ジョゼフィン:
私が分かっていることは、スマホは子供を孤立させ、スマホの中へ吸い込むという2つの目的に役立っていることだね。スマホ中毒に関する記事を読んでいて、そこに紹介された人達は非常に孤独に思えたな。私たちは科学の授業で原因と結果について学んでいる。社会的分断の点では、スマホは原因であり結果となり得るね。ビデオゲームとソーシャルメディアは最も危険なアプリだと思う。例えば、今週のこと。私たちはおじいちゃんとメイン州まで行ったよね。

道中弟はゲームをダウンロードして、とねだったの。(知っているよ。ジョゼフィン、やれやれ。) 私たちはママの許可を最初に取りました。でも前にも入れたことあったけ?まあ忘れて。ジュードは、ずっとゲームをしてくれるようにせがんでた。スマホゲームの為、私とモノポリーをしようせず、自動車の中、スマホでずっと遊んでいた。そして私もスマホにかつてないほど引き付けられたと感じたな。ママが削除するように言ったことが主な理由で、戻るとすぐにそうしたけど。

スティーヴ:
パパが知ることができることから言えば、問題となるのはビデオゲームが悪いということではないよ。問題はそれが今至る所にあるということにある。パパが子供の頃は、ショッピングセンターへ行き、ビデオゲームをする為25セントをチャリンと入れる必要があった。君の年齢でスマートフォンを持っていたら、どうなっていたかを考えると身震いするな。私の手から外科手術的にそれを取り除かなければならなかっただろうと想像するよ。しかしゲームはそれほど心配していないよ。

ソーシャルメディアほどはね。そこでは学校で繰り広げられるドラマが家にも持ち込まれることになる。ゴシップと陰口そして人気取りに休みはない。他の大勢の危なっかしいティーンエイジャー達のように、社会と付き合うストレスから回復する時間はまるでない。

ジョゼフィン:
ソーシャルメディア業界ね。それは暗く、もつれた奈落だな。友達の数人はソーシャルメディアにはまっているよ。そして多くの子供が明らかにそれについて話している。人々が抱えているフォロワーの数について終始自慢しているのは聞こえるもの。フォロワーが多いほど、称賛と驚きの声が得られる。それは人の価値を測るかなり恐ろしいやり方。あくまで私の意見だけど。

時にちょっと置き去りにされた感覚があるよ。1つのことに対し、爆発的に広がるおびただしい画像についてよく話題が出るからね。そして人は良い知らせを広げるためにソーシャルメディアを使っている。しかし、多くのヘイトスピーチもあるよね。そのサイトはぞっとする、不快な振る舞いが恒常化しているよ。

スティーヴ:
スマートフォン、ソーシャルメディア、そして次にやって来るものはすべて単にツールに過ぎない。大事なことは、私たちがどのように使用するかだね。結局そのため、ママとパパは君にスマホを与えた。君がよい選択をし、よい習慣を創り出すだろうと思っているよ。そしてそれは私たちが知る限り、もう既に起こっていることだ。私達が愛し理解している君は、思慮深く感情豊かなままでいてくれる。おばあちゃんとおじいちゃんを訪問する為、運転していた先月に起きたことについて今思い出しているよ。

俯いて熱心に凝視している君を、バックミラーで見つけた。そして君も思い出すように、全く不快なことをパパは言ったね。「ジョジー、スマホを切りなさい。」それに対して静かに君は答えた。「スマホじゃないよ。本読んでるの。」自分が間違っていたのに、これほどうれしかったことはなかったよ。

ジョゼフィン:
概ね考えてみると、スマホは有用なツールになり得ると思う。加えて気をそらし、孤立させ、ぼうっとさせる。大事なことはスマホに依存しないようにすることだね。それは生活する上でのサプリであり、生活全てに関わるものではないよ。私はテクノロジーの世界に暮らしている。スマホを暮らしの余裕として使うつもり。でも自分の子供達そしてその次の世代の子供達は、シミュレーションの絶え間ない流れとオンラインの存在を超越して、自己を保ことができると思っているよ。誰でもそうする価値があるはずだから。

スティーヴ・アーモンドは、ジョーゼフィン・コレット・アーモンドの父親としても知られている作家です。7年生のジョーゼフィンは空き時間に読書、作文、素描を楽しんでいます。ほとんどの授業(特にスペイン語)も楽しく受けています。そしてボストンチルドレンコーラスで合唱し、ペットに子ブタを飼う夢があります。

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC

 


Rotarian4月号
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              Rotarian4月号

           すべての葉は奇跡
    木、詩、生命を理解することで再生を可能にします
            ジェフリー・ジョンソン
 
 ウィンディ市には400万本の木があります。これはその一本が消え去った物語です。何年か前の夏に仕事から戻ると、見晴らしが取返しのつかないほど変容していました。朝出発した時、広く枝を張り出した栗の木は2軒先の裏庭にいつものように立っていたのに。今、それはなくなっていたのです。私以上に驚いたのは小鳥達。彼らは不満のさえずりで夕べの静寂を破っていました。鳥は巣を、私たちは日々の暮らしにあった生活の指標を失いました。

妻とこの家へ引っ越して以来、子どもたちが生まれて成長していった姿を、その木はずっと見守っていたのです。二階の寝室のデッキから、私たちは他の木々も見ることができました。それもまた壮大な眺めですが、栗の木のような威風堂々としたものはありません。その豊かに茂った葉の天蓋は大柄で屈強な鍛冶屋さえも楽々影に入れてくれます。

その木の起源からのフルストーリーを知らずにいたことを後悔していました。私たちがその隣へ引っ越した時、栗の木があった家に住む夫婦ジョージとエレンは70代でした。1924年生まれのエレンは、人生の大半をその家で暮らしました。その木も恐らく同じ時間を過ごしたはずです。それは彼女の父親がフランスから持ち帰った栗の実から成長しました。夫婦が亡くなったのはジョージが2004年、エレンはその3年後で、家は開発業者に売られました。

業者が行った最初の仕事は、栗の木を切り倒すこと。その数日後には家も解体されたのです。えらく大きなガレージのある悪趣味な豪邸がそれに代わりました。庭にはほとんど何も残っていません。ここ十年以上、これは近隣のよく知られているパターンになっています。古い家が売られる場合、2つのはっきりした特徴を常に持つ構造に取って代えられます。裏庭の代わりに屋上デッキ付きのガレージ、そしてエントランスにはギリシヤ風柱廊。後者は、しばしばドリス式円柱からできています。

トマース・ジェファーソン自身設計のモンティセロ邸ならふさわしいものでしょうが。日頃南部風が再び人気になるだろうとは聞いていました。それが隣に来るとはまったく思いもしませんでした。なぜその円柱に嫌悪感を持つのかは分かりません。1830年代に町や都市の中で、シカゴはギリシヤ風回顧の建築様式導入に熱心な最初の街でした。しかし、当時実際に建てられた建物の円柱は重いペディメントを支えていました。

隣家の新しく据えつけられた円柱は構造的というより装飾的なもので、「形式は機能に従う。」という領域では侮蔑的に感じます。そして軽い円柱のひとつを肩に担ぎもったいぶって歩く職人はあたかもサムソンのようです。これでドリス式とは。更に一本の栗の木を失うより悪いことがあります。1995年には私たちが隣にやって来た唯一の新入りではありませんでした。他の生き物は7,000マイルの旅の後でここに暮らしはじめました。

木枠や木製パレットの上で中国からヒッチハイクしながら。それは我が家から6ブロック離れた金属部品メーカーへの配達に使われたものです。光沢があり白い斑点と長い角が特徴のツヤハダゴマダラカミキリムシは、近くの木に卵を生み出しました。親木に潜り込んだ幼虫はその道中むしゃむしゃ食べながら成長していきます。そこは親虫が噛みくだいた場所で、特に木の眺めからの良さと関係ありません。この虫が発見されたのは数年後でした。

その時までに、彼らは幾つかの街区を横切って広がりました。1999年にはシカゴ市委託民間業者が寄生され荒れ果てた876本の木を切った上で焼却します。それが有効に侵略的な害虫をくい止めるただ一つの方法だったから。「この通りが再び影の存在を知るには数十年もかかるだろう。」とシカゴ・トリビューン誌は嘆きました。

最初に失ったのはノルウエー楓で、ニレ立ち枯れ病に失われた木を交換するために1966年に植えられたものです。もう一人の住宅所有者は、樹齢100年の西洋トリネコの喪失を嘆きました。彼女は生まれたばかりの息子を家に連れ帰った同じ日に、朽ち果てそうな姿を見つけました。街は荒れたブロックに沿って様々な種を植えましたが、6年後彼女の気持ちは一向に晴れません。

「ブロックには最も大きく美しい木があったのに、最も悲しい結末で終わりました。」と、西洋トリネコのあった場所に植樹された若木に言及しつつも、トリビューン誌にそう伝えました。幸運にも私たちの通りには生き残った木がありました。自宅前のユリノキは引っ越して来た日に既に高くそびえ立っていました。

それでもブロック沿いの木々を剪定する市職員はこの木はリンデンだと断言しました。「テレビ番組の『バーニー・ミラー』にも出てきたよね。」ハル・リンデン主演の1970年代シチュエーションコメディーで出てきた場面を例に上げ、自らのコレクションである樹木図録カードを見せながらそう言ったのです。

ところが6月が来るたびに、まばゆい日差しの下木々の花は色づき、ユリノキはその時リンネ由来の明らかな証拠を見せてくれます。特にドリス式円柱が近郊で急増するのを見るとき、その木を称える多くの理由を見出します。ほとんどの人々はモンティセロ様式および柱廊のある玄関に親しんでいます。(記憶を呼び起こす必要があるなら、5セントの裏をチェックしてください。) ジェファーソンが1792年に憑りつかれたように丘の上の自宅を改築し始めた時、西側柱廊玄関を支える6つのドリス式円柱の構想を描きました。

しかし何年もの間、その柱は実現しませんでした。代わりに、4本のユリノキの樹幹が使われたのです。英国外交官オーガスタス・ジョン・フォスターが1807年にモンティセロを訪れた時、彼はその樹幹を丸縦溝のあるコリント式円柱と同じくらい美しいと言明しました。ジェファーソンが亡くなる4年前の1822年に、ドリス式円柱がとうとう据え付けられました。

彼の奴隷の1人(スリムソン・ハーンという名の熟練石工)は、ジェファーソンの夢を現実にするのに手を貸したのです。しかしユリノキは少なくとも15年間モンティセロのデザインの不可欠な部分でした。 そして『ジェファーソンとモンティセロ;建造者の伝記』の著者ジャック・マクラフリンは、実際にはもっと長い間存在していたと考えています。

私たちは25年この家にいました。そしてユリノキは少なくとも樹齢120年であり、私達が去った後もずっと残っていくでしょう。隣や通りの向こう側に暮らす人造ドリス式円柱の住人は、とても幸運であるに違いありません。ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの「村の鍛冶屋」(それは「大きく広がる栗の木の下で」で始まる。)は、アメリカ人の最も愛される詩のひとつでした。

他の全てと同じく、人々の好みは変わります。建築様式、樹木栽培、あるいは詩においても。(そうでなければ、先の「村の鍛冶場」に対してわざわざ説明する必要もありません。)運命論に従う哲学者は、変化のサイクルに立ち戻ることに慰めを見つけるかもしれません。1842年3月、兄の死によって引き起こした深いうつ病から脱したヘンリー・デイヴィッド・ソーローは、友人ラルフ・ワルド・エマソンへ手紙を書いています。「自然は死を認めない。

人は喪失のない新しい形の下で自分自身を再び見つける。私たちが野原を見渡す時、悲しみはない。何故ならそこにある花あるいは草もいつかは枯れるから。その死のことわりは新しい生命のことわりであるから。」深い喪失感の真中にさえ、自然の再生は勝利します。数年そして数十年間過ぎました。そしてあのカミキリムシに荒らされた通りは再び日陰を知っています。

母親と幼い子は引っ越して行きました。しかし彼女の最愛のトリネコが立っていたところに、大いなる約束のカシの木が生まれ成長しています。私たちの場合消えたクリの木は、もう戻ることはないでしょう。例えそれができてもそれ自体を植える為の広い場所は、もはやありません。昨年晩春の五月祭の頃、ホイットマンを読みながら裏庭に座っていました。リンカーンの死に対する崇高な哀悼の気持ちは、新しく開花したライラックの群れと一葉ごとに生み出される奇跡の光景によって触発されています。

私は本を脇に置き聞きました。威容を誇る栗の木が以前立っていたほんの狭い裏庭で遊ぶ父と2人の幼い子ども。今その光景を目にすることはありません。しかし、栗の木が夜の静けさの中そびえ立つ姿を想像する時、その笑い声が聞こえてきます。大勢の鍛冶屋達に安らぎを与える枝葉のそよぐ音さえも。
 
 

Rotarian3月号
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Rotarian3月号

           共に飛び込もう本の中へ

         あなたが本を抱けば、本もあなたを抱いてくれます
                    デービッド・サラソーン
 その写真は多くの家族旅行と同じように見えます。歴史的目的地に2人の大人と10歳の子供。そこは英国グリニッジ天文台、世界の時間がスタートする場所です。しかしもっと近づいて見ると、その写真には4つ目の被写体があります。出版されたばかりのハリー・ポッターの本で、10歳の子供と比べても匹敵するくらいの大きさ。撮られている場所で子供の指は本の中に消えていて、顔の表情からも本の中に気持ちが入り込んでいるように見えます。

私たちはグリニッジへ行ったかもしれませんが、息子はホッグワーツにいたのです。ずっと前私が息子ぐらいの頃、宝島をすごい勢いで読み飛ばしていました。分からない言葉を読み飛ばし、意味を探りつつ、幸いにもだれも聞かれていないおかしな発音で。それからつい先週読んだ本よりもっと鮮明に思い出せる一節があるジェームズ・ミッチェナーの人気小説に飛びつきました。

しかしグリニッジ標準時が標準値になって以来、テクノロジーは急上昇し印刷ページを綴じた製本を過去のものにしています。情報は今や電子インパルスの形式と速度で流れ込みます。しかし、本はちょうど想像世界から戻ることをぐずる子供のように存続しているのです。コンコードのギブソン書店主マイケル・ハーマンは最近こう述べています。「常に新しい変化があることで、その都度本の死が予言されます。」「それでも本は完全なテクノロジーを秘めていて、サメのように変わらずなお存続し続けているのです。」

出版本に対し、幾つもの挑戦が突き付けられました。テレビの500チャンネルや、インターネットの膨大な情報資源は、極小プラスティック電子デバイス、理想的ピザの重さと厚さ等、多彩な情報を示すことができます。一時その脅威は致命的に見えました。今世紀最初の十年間に、米国書店数はチェーン店、独立系共に急激に落ちたのです。アメリカの至る所で書店は店を閉じ、空き店舗はネイルサロンおよびホットヨガ・スタジオへ転換していきました。

しかしここ十年間で国内の独立系書店の数は再上昇し、 着実に増加する販売数と共に1,651〜2,524店舗数に急増したのです。この復活は「IT情報」、あるいはテクノロジー関係の人々が「コンテンツ」と呼ぶものとは無関係です。それは現実の本であることに関わっており、紙の印字が言葉を送るだけでなく人々を引きつけているのです。

書店は印刷物という安心感で人の心を引き戻しています。2012年には、ベストセラー作家アン・パチェットがアトランティック誌で次のように書きました。「独立系書店は廃れたというニュースを聞いたかもしれません。つまり本は死んでいると。恐らく、読書する習慣さえも。それに対し私は次のように言いたい。「さあ、椅子を引き寄せて聞いて。私には話すべき物語があるの。」彼女の物語は、テネシー州ナッシュビルの故郷にある最後の独立系新書店が閉じた時のことです。

パチェットは書店なしでこの街に住みたくはないと思いました。そこで自ら書店を開くために2、3人の友達と行動を共にしたのです。読書好きな作家友達数人の支援によって、パルナソスブック書店は劇的な成功となります。「人々はまだ本を望んでいます。」と彼女。「私は販売冊数でそれを実証させました。」2019年の夏にパチェットは、一層多くの実績を得ました。そこでアマゾンは、パルナソス店からの通りを横切って自身の書店を開くと発表しています。

さて、オレゴン州ポートランドにある本の街パウエルという一画は、全街区に渡って幾つかの物語を生んでいます。それは書店というよりむしろご近所の感覚です。人々は、世間付き合いのような気晴らしの為パウエルに時間があると立ち寄り、郊外からやって来た人に自慢げな素振りを見せます。パウエルは社会的場所であり、話す言葉が尽きる心配のない最初のデート場所です。その魅力は、本に囲まれるだけでなく本によって自分の世界に浸れることにあります。

人々は本を読むことに絶えざる興味を持ちます。加えて本について話し合ったり、本に囲まれながら多くの時間を過ごす仲間と話すことが好きです。ピッツバーグの新しくブームとなったアメイジングブックスアンドレコードのオーナー、エリック・アクランドが去年の夏ニューヨークタイムズ誌で語りました。「書店員もしくはオーナーは、必然的にちょっとした心理療法士なのです。」多くの人々と同じく、しばしば特に理由もなくパウエルに出かけます。


ほんのちょっと前なら必要となるとは思いもせず買った本を手に一杯持って。その種のことが書店で起こります。とにかく私にとって実際の本屋ではありがちなことです。実際の本ならこのキャラクターは誰だったか思い出すために数章ページをめくり戻せます。「ところで彼女は6章でシカゴに行ったのだっけ。」物事が幸福に終了することを確かめるために最終ページを盗み見ることができます。余白に皮肉なコメントを書くこともできます。

勿論図書館ではだめだし、多分著者は実際にそうしないことを望むでしょうが。それはiPadでも可能ですが、なぜか得られる経験は同じではありません。「人々は電子画面の前で多くの時間を過ごしますが、他の何かをしたいと思っています。」と、米国小売書店協会の直前CEO、オーレン・タイハーが語ります。「物理的に本を読むことは電子画面で読むのとは基本的に異なった経験となる、とても強力な事例があります。」2019年には、ヘチンガー研究所が次のように報告しています。

正確な理由は明らかではなくとも、29の研究分析によれば、学生は電子画面よりも印刷物からのほうが多く記憶できるというのです。注意散漫になるから?目の動線の違い?深い脳機能に関わること?私の理論は物理的繋がりのパワーに基づいています。あなたが本を抱いている間、本はまたあなたを抱いているのです。

それは実際のキスがロマンチックな映画よりずっと良いのと同じ理由です。(まあこの調査結果を電子画面で読んではいますが。) 本はテクノロジーの進化を食い止めている訳ではないでしょう。人々は今なお55インチのテレビ・スクリーンと同様にスマホを取りつかれたように凝視しています。しかし本は寝室用小テーブルと同様に書店でも自らの存在価値を保持しています。寝室小テーブルは事実本の強力な砦かもしれません。睡眠へのお供に、暗闇で怖い夢から覚める時の安心の為に。本はそのような時の慰めです。

しかし、完全な(そして持ち運びできる)テクノロジーとして、本はさらに他の不安な状況に陥ったあなたに寄り添えます。私は生体検査時に本を持って行ったことがあります。組織の一部が採取される時も、文章の一行一行に集中したのです。医者は多少面喰いましたが、本はいい方法であるに違いないと言いました。実際そうでしたが、持って行くものが本であることによって、ポッドキャストから得られないものを与えてくれたのです。

注意深くあなたに届くように整えられたページの言葉は、あなたの頭の中の声より完璧に痛みから気をそらすことができます。あなたは運転の間ポッドキャストを聞くことができますが、本を読もうとすることはもちろん良くない考えです。概算500万人のアメリカ人が、読書グループで定期的に会います。電化製品の批評やウォツカ試飲クラブで集まるのと対照的に、本について話すことはあなたの人生について話すことになるからです。

インスタグラムについて話すことではそうなりません。本は人々を共に集める力を持っています。最近のことです。ロサンジェルス空港でレンタカーを降りて、リアバンパーの掻き傷について20代のレンタル業者と会話を始め、どこにもぶつけていないことを明らかにしたいと思いました。その引っ掻き傷はそこへ以前からあったに違いないからです。業者は私と機内持込手荷物に近づいて身をかがめたように見えました。

言い争うようでもなく、そのしぐさで何かが分かったように感じ、問題があるかどうか尋ねると、彼女はこう言いました。「いえ、あなたが何を読んでいたかただ確かめたかっただけです。」

 
オレゴン州ポートランド在住のデービッド・サラソーンは、11月号で親切の単純な行為の持続する影響について寄稿しています。

 
翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC
 
 
 

 


Rotarian2月号
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                                                                     Rotarian2月号

                    ある見解

          溢れ出るニュースにストップをかける

ただ1日でもいいのです。 あなたを動揺させるすべてのニュースから距離を置いてください。

                                                                            フランク・ビュアーズ

1986年にクリストファー・ナイトという男がメイン州の森へ歩いて入り、一人になれる場所を見つけテントを張りました。そこに2013年にサマーキャンプから食物を盗んで捕まるまで居続けたのです。北の湖畔に住む隠者として知られたその男は、他者に話しかけることはめったになく、彼にとって世界はほんの狭い周囲に限定されていました。ジャーナリスト、マイケル・フィンケルが自著『森の見知らぬ人;副題 最後の真なる隠遁者 その風変りな物語』のためにナイトをインタビューした時のことです。

現代世界との接触から離れて以来、テクノロジーの変化についてどう考えるかを尋ねました。ナイトはテクノロジーに少しも圧倒されていませんでした。「人は、熱心にこう言う。『ナイト、今は皆携帯を持っている。実際楽しめるはずだよ。』それは社会復帰への誘惑。少しもそんな気はないよ。ではテキスト・メッセージはどうか。電信として携帯を使っているだけのことではないのか。私たちは後退しているのさ。」

ナイトが社会から離脱した後、ニュースを得る方法に革命がありました。毎日毎時間、メッセージと警告がコンピューターに携帯に届きます。私たちのほとんどは進歩としてこれを受け入れます。隠遁した27年間がなければ、ナイトはバブルの中に巻き込まれたでしょう。下界ではちょうど残った私たちが、生活の中に入り込むニュースの洪水の中に溺れそうになっていました。今や1日に平均11時間メディアとの対話に費やしています。

画面を凝視し、ずっと遠くで起こった記事について読んでいるのです。ニュース自体の内身または送られること自体は、ことさら悪いものではないでしょう。それを必要とする他の人を助けるために知らされるべきです。しかし、ニュースのこういったノンストップの流入には代償が存在します。絶えずニュースを傍受することは、私たちの感情の状態、エネルギーレベル、メンタルヘルス、世界観に影響する可能性があるのです。

ナイトは見出しに右往左往するストレス障害や、ニュースに対する金属疲労に恐らく苦しんだことがないはずです。しかし、私たちのうちの多数はその経験があります。米国心理学会による2019年調査によれば、54パーセントの人達は、ニュースを追うことはストレスをもたらすと述べています。また、ピュー研究センターによる2018年の研究で、アメリカ人の68パーセントがニュース消費で疲れ切っていることが分かりました。

溢れ来るニュースが人にとってよくないという多くの理由の中で、最も重要なことは世界が実際にそうであるよりずっとネガティブに捉える傾向があることです。バッドニュースに注意を払う先天的な必要性は確かにあります。何故なら進化論的に言って、このような情報が私たちの直近の生存にとってずっと重要になり得るから。研究者はこれを否定的バイアスと呼びます。私たちは皆、テロ攻撃、ハリケーン、難破、死滅する珊瑚礁等、あらゆる災害の話から目を逸らすことがどれくらい困難か知っています。

しかし、これらのニュースに連続的に心奪われる時、深刻な影響を与えます。2015年に、イスラエルの研究者が次のようなことを発見しました。ネガティブニュースを繰り返し見ると、抑制されない恐れ、生理学上の過覚醒、睡眠障害、不安を招く考えに飛び込んでいくというのです。加えて少なくとも不安の徴候を経験する可能性が1.6倍になる可能性があるとも。心理学者ウェンデイ・ジョンストンとグレアム・デービーは、別の研究を行っています。

その中で参加者はポジティブ、ネガティブ、どちらでもないニュースを14分間見ました。ネガティブなニュースを見た人は2つの他のグループより後にずっと不安と悲しみの世界に浸ることを報告しています。しかし、結果はそこに留まりませんでした。その感情は治験者自身の生活に持ち越され、全くニュースと関係がない個人的関心事に入り込む可能性がぐっと増えるのです。デービーもこう書いています。

「ネガティブに繰り返すニュース放送は、更に悲しく、憂鬱にする可能性があるだけでなく、あなた自身の個人的心配事を悪化させます。」現在、ネガティブニュースは私たちのまわり全てにあります。財布の中身にあります。自動車、待合室にあります。私たちはバッドストーリーの海に暮らしています。したがって私たちの多くが、奈落へ掃き出されていると感じるのも不思議なことではありません。アメリカ人の約69パーセントは、国家の将来について心配することがストレスをもたらすと報告されています。

多くの生活基準、例えば教育、収入、平均寿命の情報によって、私たちが順調ではない場合にストレスが生じます。過去において、ニュースはそれほど即時的ではありませんでした。新聞で読む時までに、健全な距離感が持てる一定の時間が過ぎていたのです。一方私たちが今日読むものの多くは、毎日の生活に影響しないという点で実際には遠くかけ離れています。それなのに余りに注意を払い過ぎれば、本当に問題にすべき多くのことに気が付かない訳です。これは新しい見解ではありません。

1854年に、ヘンリー・デイヴィッド・ソローという名の隠者がウォールデンで同様の所感を示し、それを湖畔の丸太小屋で暮らしながら書き上げました。著書の中で、彼はニュースの絶え間ない流入に対する世間の欲望について異議を唱えました。「かろうじて夕食後30分のうたた寝をしたとします。でも起き上がれば、こう尋ねるのです。『ニュースは何かない?』あたかも、残りの人類が彼を見張っているかのようです。私なら頭に残りそうなニュースをまず読みません。」と、付け加えて書いています。

ソローの立場は極端でした。興味がない訳ではなく、重要であると思ったものから気を散らさない為にニュースを避けたのです。「私は森へ行きました。」彼はきっぱりとこう言いました。「何故ならゆっくりと生きたかったからです。本質的な人生の面だけを直視するために。」私たちにとって問題はどの事実が重要かということです。どの政治家が世論調査で上位か、建物が全焼したことか、あるいはハリケーンが上陸するか否かを正確に知ることにあるのでしょうか。

自分の生活が提示しなければならないシンプルな喜びを正しく評価する、そのことが厄介なのは不思議ではありません。私が自身の最も良き日々を振り返って考えると、それは真から喜ばしく、過去やそれ以後の嫌なことは少しも問題にならない時間でした。ニュージーランドのブドウ畑で妻との晴れた日のピクニック。初めて抱いた生まれたての娘。イタリアの公園で友達とのサッカー。娘とのスペリオル湖護岸でのスキップ。

そういった時間に、私は確かにそこにいたと感じます。そのどこにも、ニュースを読むことは入っていません。しかし、明日の心配事に今日の喜びを閉じ込めるこむことは割りの合わない取引です。将来を守るために、まず私たちは現在を守る必要があります。ソローはこう書いています。「一日を自然の営みと同じくらいゆっくり過ごそう。レールに降りかかった木の実の殻や蚊の翼で脱線しないように気を配りながら。」そうするために森に隠れる必要はありません。しなければならないことは、一日をニュースなしで過ごすこと。その日の終わりまでには、周りに世界は既に少しはよく感じるはずです。

フランク・ビュアーズ『狂気の地理学』の著者であり、Rotarian誌への定期的寄稿者です。

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC


Rotarian1月号
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          Rotarian1月号

                             分かち合わないほうがありがたい


                 忠告があります あなたの愛読書を押しつけないで

               ジョー・クィーナン

 本をむやみに薦められること以上に、この世で不安を呼ぶものはありません。贈られた本もそう、あるいは前にも贈られたと大いに疑われる本だって。警告、脅威と同じく、贈られあるいは薦められた本は、できれば避けたいと思わせます。その本が良書として確認された上で、その通りだ、素晴らしいとの感想を求められます。贈ったあなたが気に入ったというだけでは十分ではありません。そのやりとりが楽しいだけでは十分ではないのです。

365オークランドライダーズファンと暗い裏通りで殴り合いに巻き込まれたら、加勢するだけでは十分ではありません。更に、リスペクトを示してほしいのです。あるいは、少なくとも本の趣味を尊重してほしいのです。これは多くを求め過ぎています。あまりにも多く。ここに、基本的問題があります。もちろんあなたのことは好きです。マス釣りに詳しく、株の配当曲線に関するあなたの考えも、驚くほど洞察力があります。

マコン郊外でロックギタリスト、ボー・ディドリーとヒッチハイクした話を聞くのは楽しいものです。しかしあなたの推薦する本には興味がないのです。今ではなくずっとこれからも。はっきり言えば『死者が膝まで』とか、『サラセン人三日月刀の惨劇』とか、『誇り高き田舎者よ』といった類の本が好きだと言わないように望んでいます。それまでは、事は順調に行っているように思えても今や私を悩ませることになります。観光客はニューヨークで歩きながら地図を調べないように警告されます。

その行為は恰好の餌食となるからです。人の本をちらっと見た時、それが本を薦めるのが無性に好きな人のものだとすれば、同じ様に餌食となります。私は友達の家で本を拾い上げる誤ちを犯しました。ただその重さを計るためだけだったのに。こう言われたのです。「どうぞ、持って行って。しばらくの間読むつもりはないから。」そうもちろん、しばらくの間読む気はないのでしょう。それはジョン・クインシー・アダムスの989ページもある伝記です。そして本を持って行かせたのだから、それを読む必要はないはずです。

私がそれを読み終えるまでは本を開くつもりはないと言った訳で、本の内容を知ることは決してないでしょう。何故なら、私が次のように言う時はありえないからです。「電話があってもつながないで。ジョン・クインシー・アダムスの伝記をとうとう本腰を入れ読むつもりだから。」例え私が115歳まで生きても、読み終わることはならないでしょう。したがってあなたは、ずっと自分で課した読む義務を逃れます。推薦された本は一見巧妙なロールシャッハテストといえます。それは、餌食と見込まれた者が見込んだ者と同じ価値を共有することを確かめようとする試みです。本人が読みたくない本を与えることは単にプライバシーの侵害ではありません。

それは平手打ちであり、残酷な懲罰です。大げさに言えば社会的に受け入れやすくしたサディズムの様相であり、中世にあった沸騰した松脂投下戦法の現代版です。例えば、約束していたブロードウェー上演中のハミルトンのスペアチケットの話が無くなれば、誰でもがっかりします。その時相手の手元にミュージカルを触発したアレクサンダー・ハミルトンの1,200ページに及ぶ伝記があるとします。「代わりに読んで楽しんで。」と、言われるようなものです。人は自らの人生を変えたと思える感動本を与えるのが大好きですから。

例えば『リトル プリンス』、『ダウ36,000』、『オフィシャル プレッピー ハンドブック』、『クジョー』 率直に言って、今なら腰痛を治す方法が載ってない本なら興味がありません。80歳代十種競技参加者に関する本、ティーポットカバーの発明がいかに世界を変えたかの本、悲運なる火星探査機に実際にふりかかった災難を述べた本に全く興味がありません。私には自身の読書予定表があります。それはあなたのそれに似ていません。

読まされる犠牲者の免疫系が最も弱い時に、人は本を推奨する可能性が最もありそうです。あなたが半月板を断裂させたか発疹チフスで病床に臥していると聞けば、彼らは似つかわしくない同情を込めた顔でハイエナのようにやってきます。それも異国風チョコレート、優雅な花束、ダン・ブラウンのベストセラー狙い見え見えの本を抱えて。彼らは善意があっても、口うるさく、娯楽小説しか読まなかったマリー・アントワネットそっくりです。

苦痛の床に何週間も閉じ込められているなら、私なりの哲学に沿って喜んで手にできる贈り物は、カンノーリのお菓子とケイト・アトキンソンの著書ぐらいです。本を常習的に推薦してくる人は、頑固で執念深く自分だけの哲学に固執しています。「あなたには、欠けているものがあります。でもこの本を読むことで修正できます。あなたの人生を改善させてください。」しかし、ほとんどの人々は改善されたくありません。闇の政府に関する本なら別かもしれませんが。ほんの少数の例外(聖書、コーラン)を除いて、この世で重要なものは本を読むことで改善できません。

このことは、政治家、更生したホワイトカラー、ホッケーチームレッドウィングの勇気あるディフェンスマンの自著または関連本に特にあてはまります。わざわざ心に留めておく必要もないことです。本を推奨する人には、その犠牲者への故意の鈍感さと無神経さがあります。彼らは例え取得可能なデータが気にいらないはずと示しても、その本が好きであってほしいのです。これはフットボールの『オハイオステートバックアイ』チームの選手に、『ミシガン』チームに関する本を渡すことに似ています。菜食主義者を夕食に招待し、山盛りのケンタッキーフライドチキンバケットを持たせることにも似ています。

なぜそうするのでしょうか。私が何者であるかに若干でも注意を払っていたでしょうか。アンナ・ケンドリックによる本ではなく、アンナ・カレーニナに関する本を読んでいることに気づかなかったのでしょうか。高校で押し付けられた古典読みに浪費した貴重な時を、臨終の床でさえまだ気づいていないのでしょうか。『スカーレットレター』、『日陰者ジュード』、『セールスマンの死』、『サイラス・マーナー』皆これらの本を嫌っていました。

普通に難読だっただけでなく、読むことを強いられたからです。強制的な本推薦者は、 高校の英語の先生のようです。取りつかれた本寄贈者の心を何が占めているのでしょう。慈悲深い気持ちから、「世界で起こっていることを理解したいなら読む必要がある。」と、真っ正直に信じた人があなたに本を与えます。それは間違っています。必ずしも誰もが失業の隠れた構造的原因に心取り込まれるとは限りません。

必ずしも、バリー・マニロウがベット・ミドラーに関してどう思うか気にするとは限りません。さらに、人は全てが必ずしも同じ理由で読むとは限りません。何人かの人々は情報を得るために。別の人は不安を消すために。でもほとんどの人々は気晴らしのために読みます。私が読む理由は、作家が言葉を組み合わせる職人的な手法が好きだからであり、普段の言語で世界に関する見方を変えてくれるからです。『大いなる遺産』は、集合住宅で育った人に超人的な励ましを働きかけます。

『ドリアングレーの肖像』は、びっくりハウスへの一人だけの招待です。ジェームズ・エルロイの小説は450ページにわたるテナー・サキソフォンのソロ演奏に似ています。強迫観念に取りつかれた本推薦者が分かってないことがあります。必ずしも皆サキソフォンが好きだとは限りません。私は、3人だけから本の推薦を熱心に受け入れます。私の姉妹アイリーン、私の娘、The Rotarian誌の編集長。他の人はそうではありません。嘆かわしい程見当違いの親切心で、数年おきに本が贈られ、または勧められます。

そして、読むのに3か月費やしても机の上をきれいに片づけると誓った本が上へ上へと積み重ねられます。しかしお手上げとなった時点で、ディエン・ビエン・フーでのフランスの敗北に関する本はわずか約30ページしか進みませんでした。しばらくして、再び努力します。その時には別の5,6冊の本が私の図書目録に加えられる有様。その読書予定は絶望的なシーシュポス王状態になりました。ところでシーシュポスは、無意味に丘の上へ巨石を押上げる為永遠の時を費やしました。

しかし、彼はそれに関して書くことに永遠を費やしませんでした。さもなければその本をまた読まなければならないでしょう。さて、オフィスで本当に楽しめるものを望まれたら、貸してあげられる若干の本を持っています。ペネロピ・ライヴリーの『ムーンタイガー』、ジャック・バルザンの『ダーウィン、マルクス、ワーグナー』、トーマス・バーガーの『悪霊に出会う』、J.L.カーの『その国での一か月』、ジェームズサルターの『光年』、グレアム・グリーンの『権力と名誉』、ポール・ギャリコの『ハクガン』、リザードカプシキーの『ヘロドトスとの旅』これらを何度も繰り返し読みました。

私にとって大いに意味ある本、心底良かったと信じる本は、どんな人の承認も得ることができるくらいの完璧さに迫っているはずです。時々、友人にこういった本を提供します。そして彼らはまあまあ感謝しているように見えます。しかし、たいていまず再度感想を聞くことはありません。ほとんどの場合私のところに戻って、2冊目の無人島持ち込み本の推薦を求めないからです。恐らく渡した本が私にとっての意味ある愛読本であり、無人島持ち込み用であると、何とか理解した程度だからです。結局自分にとっての無人島持ち込み用の本は、あなた自身が見つけるべきなのです。

ジョー・クィーナンはニューヨーク州タリータウン在住のフリーランの作家です。

翻訳 津坂 守英@名古屋城北RC


Rotarian12月号
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                                                           Rotarian12月号

                                                    親を育てる

                            親が老親となる過程で期すべきこと

                                                  ポール・エングルマン

20程度年前に、シカゴ・サンタイムズ誌で主夫日記という短期の週刊誌コラムを書いたことがあります。その当時私たちには4歳および2歳の子がいました。子育てという話題にアドバイスを送るには機は熟していたはずです。でも共有すべき知識を余り持っていなかったので、アドバイスらしいことをほとんどしませんでした。代わりに、知恵に繋がる道を物語ることに焦点を当てました。

ぞっとしないガソリンスタンドのトイレで緊急時のおむつ交換、ベビーシートの設置に手を焼いて自尊心を傷つけないようにする、誘拐犯人ではないかと疑われないように子供と比べ少なくとも半分くらいはきちんとした服を着ている、といったように。27年間親であったことで、子供を育てることにたった1つの普遍的な真実を見つけました。親はみな同じゴールを持っています。 子どもたちが成長して独立した人間になってほしいというゴールを。私たちは彼らが幸福で、健康で、成功してほしいと願うかもしれません。

しかし、そのために基本的に責任を負うただ一つのことは、か弱く全てに依存している赤ん坊を成年期の領域まで導くことです。その旅が健康問題によって遠回りしなければ、ある時点で彼らは独り立ちします。あなたは常に親ではありますが、親として行動する必要はやがて減っていくでしょう。そしてある時点で、自ら老親になる心構えが必要となるかもしれません。

60代半ばを超えた妻バーブと私は今、親であることと老親になることの間にある手際を要する過渡期の段階にいることを見出しています。そう気づく時ということは、既に進行中の段階なのです。それは微妙な形で、状況に応じて始まります。例えば運転を取り上げましょう。子供がライセンスを得た後、家族がどこか出かけるときはいつでも、運転することを願い出ました。今でも運転を依然として申し出ます。でも、もはや運転をしたいというより、私たちよりましな運転だと信じているからです。

そして多分彼らは正しいのです。ここ数年間、私たちがレストランへ行くと子供の1人は勘定書きを取ろうと手を伸ばしそうになります。これは一時的なジェスチャーとして始まりましたが、今時々彼らは実際にそうするつもりでいます。妻や私より生活に余裕があるようになればその日は近づいているのです。でも私が望んでいるのは、子供達がいかにうまくやっているかの姿を見ることであり、私達がいかにうまくやれなくなるかではありません。この頃子供の1人は一日おきくらいに電話してきます。

大抵目的は一緒にできることを知ろうとする以上に、私たちの健康診断に重きを置いています。同じ街に住むことは私たちの家に定期的に来ることを意味し、必要が生じた重量物の持ち上げ等の世話をします。しかし、今でも決まって自分の洗濯物を持って来ます。成人した子供が洗濯物を家に持ち込むことは、ありふれた思い付きかもしれません。しかし、それは両方の視点から関係を変える例としての価値があります。

子供達は親への依存性の継続を示しながら、例え必要というより便宜上思いついたとしても、あざとくなく親の世話を可能にします。私が心に留めていることは両親の、特に父親の振る舞いの幾つかを繰り返さないことです。何年も前、妻と二人でニュージャージーの両親のところへ訪れようとしました。その時父親は、1時間車に乗ってニューアーク国際空港で私たちを拾おうとしました。それは総計約60レーンある6つのハイウェーが合流する場所にあります。その多くがジェットコースターのように配列され、ほぼカーニバルの乗り物状態でのろのろ進む交通状況という有様。結局、妻バーブは私にこっそり、でもはっきりこう言いました。

次回車を借りないならば、二度とこの旅行はしないと。当初、役に立つと感じたい父のニーズを満足させようとしました。しかし、それが私たちの命を危険にさらすことを意味した時、彼女はイエローカードを掲げたのです。父はこの状況を余り気にしていませんでした。この過渡期がどれくらい滑らかに行くかは、子供ならば、いかに向上することに積極的か、あるいは親ならば、いかに身を引くことに自発的かに依存しています。私たちは親として甘やかす観点で誤っていたかもしれません。

特に子供が自分で申し分なく理解できる問題にアドバイスをまだ求めてくる時、そう思いたくなるのです。私たちは求められない助言を申し出ることに、ずっと注意するようになりました。これはレッスンです。妻バーブは、長男と一緒に事を進める場合にそれを学ぶ必要がありました。彼らは両方とも小規模の非営利団体で活動していて、ある共通の業務上の分野を共有しています。最初のうちは意見交換すれば、長男は母親が与えたいと思った知恵を喜んで受け入れました。最近では彼の方が提案を出す側となっているようで、聞き役が彼女の番となっているのです。

「既に良きコミュニケーションが存在するなら、過渡期はもっと滑らかに行きます。」と、サリー・ストローサルは言っています。彼女は40年間シカゴ郊外に住む結婚および家庭に関する心理療法士であり、3人の成人した子供と2人の孫がいます。サリーは『引退後の愛ある結婚;いつも音楽がある』の著者でもあります。その本では職業的経験と同様個人的経験にも言及し、元新聞編集長である彼女の夫トム・ジョンソンとの共著ともいえます。「老化の影響と仲良くなることが、私たち全てにとって継続中のタスクです。」と、サリー。「だんだん年をとることは、選択できる問題ではありません。

しかし、老化についていかに感じ、対処するか。そこに選択が生まれます。」サリーは、ユーモアのセンスを維持しながら明るい方法で老化に近づくことにより、対処することを勧めます。「トムと私は記憶が飛ぶことに関して互いに笑い合います。また、意識的に子どもたちともそうしています。」と彼女が言います。「子供達に私たちが老化に悩まされることにオープンであることを知ってほしいのです。」サリーの見解でも、オープンであることは深刻な結果が現われる場合に、現実的なコミュニケーションに道を切り開く手助けとなる、としています。

「私たちはこう言えるお膳立てをします。『私は助けを必要としている。』」「子供達は私たちが健康を害するようになるにつれ、引継ぎを始めます。それでも、自らを脆弱であるままにまかせることによって、そして脆弱さを弱さとしてだけでなく真実として見ることによって指導的立場にいることができます。優雅に老化するには、現実の結果がもたらすものにエネルギーを取っておくため、どう受け入れ選択するかが関わっています。

テクノロジーは決まり文句で言うなら、脆弱性が当初から現われる明らかな領域です。子供達は私たちより容易に操れるでしょう。そして、これは私たちにとってフラストレーションに結びつき、子供達のいらだちにつながります。これらの状況が発生する時、防衛的手段をあらかじめ持つことが有用だと思います。子供達に駐車用ターンテーブルの使い方や縦列駐車を教えたのは誰かを思い出させるといったように。忘れっぽさと難聴は老化の2つのあまりにもよく知られている兆候です。

ここでもユーモアセンスの維持が価値を持ちます。私の友達はこうジョークを飛ばすことが好きです。「私の年齢のことを言ったのかい、それとも雑草のこと?」しかし、度忘れは軽く捉えられるべきではありません。特に痴呆の初期的警戒兆候である場合です。時間と場所をよく混同し、慣れた仕事を果たすのが難しくなれば要注意です。ロック・コンサートに出かけた長き過去のせいにすることにより、耳が遠いことについて子供達の心配をそらすことができます。しかしあっという間にどんな音楽にも直面しなければならない問題となるでしょう。

サリーとジョンソンも最近そういう状況になりました。「二人とも、互いに聞くのに苦労していることに気づきました。しかしどちらも、聴力を失っていることを認めたくありませんでした。」と、サリーは言っています。「娘はついには私たちを座らせて、ヒアリングチェックを受けるように諭しました。私たちは互いに贈り物としてバレンタインデーにそうすることに決め、補聴器が助けになることにようやく気付いたのです。

子どもたちが親の難聴について、きっと話し合ったはずです。そしてそれを二人で笑いあいましたが、結局は子供達の招集は必要な状況だった訳です。」親子関係を複雑、されど豊かにできる主な展開のひとつは孫の到来です。サリーは祖父祖母になることを、調和とその許容範囲の境界線で踊るダンスのようなものだと言っています。彼女によれば、家族内のベビーブームは祖父祖母ブームになります。我々祖父母の多くが、次世代への主要な世話役としてベビーシッターや身の回りの手助けの役割を引き受けるからです。ジョンソンは家族心理療法士として、そのことに皮肉をこめてこう指摘します。

「妻は、育児上の手引きを提供するように周りから求められます。しかし自分の孫となると、わが子達は友人の推奨に従っています。」もし求められなければ、どんな助言もわざわざ与えないでください。それは役割交代の途上にある親子の対話の大部分で、滑らかに進む良きこつのように思えます。そしてサリーは、頭韻を踏んだ高揚感を覚える深い叡智をこうつけ加えます。「Let love  lead 愛の流れを導こう。」


ポール・エングルマンはシカゴ在住のフリーランサーでThe Rotarian誌への定期的寄稿者です。

Rotarian11月号
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Rotarian11月号
                              優しさはどのように評価されるか

                                                デービッド・サラソーン

親切な1つの行為が生涯鳴り響くことがあります。ずっと前8歳か9歳の頃、父親はリスクの大きい手術を受けました。近頃では、この特別だった手術もほとんど困難はない程度のものです。しかし、当時それはさいころを転がす大ばくちでした。どれくらい危険だったか理解するには多分まだ子供の知能では十分ではなかったでしょう。そして周りの大人は、決して正直とは言えないとしても、9歳の幼児にまともに説明する理由なんて無かったのです。

手術の前日医者の1人が、私に会わせてくれるように頼みました。私は嬉々として彼のオフィスへ。当時の年齢では、一人の大人が話しかけたいという思いはその出来事を特別なものにしたのです。彼が伝えたことはとてもダイレクトで、翌日の午後私がとても腹を立てている可能性があると説明しました。もし起こったとしても彼に向かって怒るべきだ、と言ったのです。

医者の名前は覚えていません。どんな顔だったかも思い出せません。背が高かったという感覚は残っていますが、9歳にとって多くの人は背が高く見えるものです。しかし彼が何と言ったかをはっきり覚えています。そして何十年も経った後でも、その記憶にはまだ私の心を暖めるキャパシティーがあります。優しさはそれができるのです。その医者は父親を生かす為最善の努力を尽くす以外に、私に何の義務もありませんでした。

しかし足下に口を広げるかもしれない奈落の底がどんなものか、分かるはずもない幼い子供に手を差し延べました。つらい状況の向こう側にたどり着くのを助けるため、優しさを見せることは一日を穏やかに過ごす手段です。しかし優しさを具体的に実行することはそれ以上に大きな意味をもつ場合があります。そのできごとの熱が冷めた後でも、数十年間も輝きを投げかけ、ずっと長く温かな感情を提供できます。

そのような贈り物は消耗することなく忘れられません。記憶され大切に残っていくものです。ハリー・ポッターの本に1つのメッセージがあります。子供の時深く愛されたことは、人生全体にわたって守られているという感覚を与えられるのです。あなたが闇の力に脅かされ、あるいは期待はずれのSATスコアにしょげている時、その記憶は自負心と自信を持つ感覚を回復させてくれます。優しさの行為を受けることは同様の効果があるかもしれません。

あなた自身に価値あることで不安を消し去るだけでなく、内国歳入庁からの課税書款が仄めかすほど世界は暗い場所ではないという永遠なる確信を持てます。私たちが大いなる優しさを思い出す理由があります。だからといって、受け取った人が帳簿をつけて、優しさにお返しをする準備をする訳でもありません。この世界では、輝く優しさは行為とそこに費やした時間の組み合わせで評価されるのです。そして、その評価を超えた何かを生み出します。

優しさにお返しようとすることは、民泊予約サイトAirbnbでベルサイユの宿泊料を算定することに似ています。親切をお返しする交換レートは計算不可能です。あなたに与えてくれた相手の人生に同じインパクトをもたらす方法を見出せないなら、そのことが他の人に親切をお返しするという気持ちに拍車をかけます。

あなたの感謝の気持ちの中でいつまでも生き生きと蘇る相手にお返しができないとしても、少なくとも宇宙に繋がるバランスシートを整えられるのです。ことによれば誰か他の人の記憶の中にずっと残すことも可能でしょう。あの手術を受けた10年後、大学生だった私に父が突然亡くなったことを伝える深夜の電話を受け取りました。呆然として、友達に車で翌日駅まで送れるか尋ねました。その時彼はどうしたか。

直ちに車で2時間かけて自宅に送ってくれ、夜中を引き返して学校に戻してくれました。途中の道すがら何を話したか思い出せません。何となく事態を比較的明るく保とうとしたと思います。彼に心配させないように、心の隅に後から思うことになる父親の死という事実を押し込むために。しかし、1マイル走るごとに友達が大きな優しさ、祈りさえも授けていることが分かっています。数十年間友達に会っていません。

彼は全てのエピソードを忘れたかもしれません。でも私はそうではないのです。結局その優しさはその状況で届けられただけでなく、思い出すことでいつでも癒されます。それは、膨大な情緒的複利で構築された恩義という負債であり配当です。あなたに授けられた優しさは、今後何年も人生に光り輝き、称号を授ける必要もありません。物質的気前の良さ、寄贈物は称賛に価しますが、そこでの感謝はもはや対象物自体以上に持続しないかもしれません。

贈られる食事、セーターあるいは時計さえ、有効期限を有します。でも誰かが重要な瞬間にあなたの前に現れた記憶は、他者と接する限りあなたの中にとどまります。いつも持ち歩く長期的なデータベースには、想像以上に「親切、深く記憶された行為」のファイルに綴じられた多くの記載があります。1970年にジェームズ・ベーカーの妻が癌で死んだ後、ジョージH.W.ブッシュはテニスクラブ仲間でもあった彼に「上院選挙戦で支援してくれれば、ちょっとした気晴らしになるよ。」と、提案しました。

当初ベーカーは乗り気でありませんでした。1つには当時テキサスのほとんどの人達と同様彼は民主党員でしたから。でもブッシュはまるで気にかけないと言ったのです。ベーカーが終始とても悲しく見えることが嫌でした。ブッシュが友人に手を差し伸べたことは、やがて大統領首席補佐官、財務省秘書官、国務長官就任に結びつきました。それは、ブッシュにもどちらにも悪い結果とはなっていません。

そして48年後ブッシュの国葬での悼辞でベーカーは、前大統領の言葉を引用してこう話しました。「友達が傷ついている時、気にかけていることを示して下さい。人に優しくあって下さい。」ずっと前ある夜遅く妊娠の妻に突然問題が起きました。病院へ駆け込む前に3歳の子供を降ろして行きたいと隣人に電話しました。わざわざ「お願い。」とは言いません。何故なら、隣人が断る可能性は私にも妻にも決してなかったからです。その状況で妻の激痛を引き起こした張本人は今や30歳です。

しかしその夜の通話はずっと前のことのように思えません。今でも隣人と頻繁に会っています。互いの家の鍵を緊急時のため持っていること以上に深い絆が私たちの間にあります。優しさはその行為以上の価値があります。それは力、一層強力な力であり、優しさは受取った人に力を与えます。最初の状況が古い選挙予測のように衰えても、数年経っても彼を力づけるのです。さらに与えた側にも力を与えます。

何故なら誰かの人生に肯定的な影響を与えることは、スーパーマンのX光線以上にずっと強烈で、想像できる限り最も強力な能力をもたらすからです。『神のご加護がありますように、ローズウォーターさん』で作家カート・ヴォネガットの作り出したヒーローは、隣人の生まれたての双子に洗礼のスピーチをしました。

「こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。夏はひどく暑くて、冬は随分寒い。ここは球形で水に覆われ、たくさんの人でいっぱいだ。外に生まれ出たこの世界で君たちは約100年の命を得た。僕が知っている規則がひとつだけある。それはね、優しくなければならないってことさ。」あなただってそうすれば、その輝きは100年続くのです。

デービッド・サラソーンはポートランド州のオレゴニアン誌で長年コラムニストを務め、ニューヨークタイムズとワシントンポストに寄稿しています。彼は、『ルイスとクラークを待つ;副題二百年祭および変わる西洋』を始め3冊の本を出版しました。

         翻訳 津坂 守英@名古屋城北RC


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Rotarian10月号

 

大切な支援

ボランティアの努力が食料配給所の維持につながる

 

デービッド・サラソーン

 

その空間はややもすれば、小都市の食料雑貨店のように見えます。じゃがいも、キャベツ、オレンジ、その他の食材の入った蓋のない箱が部屋の中央にずらっと並んでいます。食材の箱および缶は壁に沿った棚の上で整えられ、訪問者は提示中の食品アイテムをチェックして歩き回ります。見当たらないのはレジ。アメリカには66,000箇所の食料配給所があり、そこに何百万もの人々が戸棚の中身と月末の空白を埋める為にやって来ます。配給所は一般に教会地下、コミュニティーセンター、学校で運営されています。

ここ、ワシントン州バンクーバーのFISH(『人間性に対する奉仕を行う仲間』の略)西部地区食糧配給所は、かつてセントポール教会ルター派教会の一角にありました。しかし2015年末に自前の建物を購入しています。州補助金やローンの助けを借りたもので、加えてカトリーヌ・スミスの下で募金活動も寄与しました。彼女はバンクーバーRCメンバーで、FISHバンクーバー理事会の現理事長です。カトリーヌの本業は広告事業にあり、さらに食糧配給所のフロント受付を定期的に交替しながら従事しています。「

私が来訪者の来所手続きをしていると、彼らはとても落ち着いています。それが大声を出さずに済む全てです。大声を出す状況になれば、どう対応するか分からなくなりますから。」多くの米国の都市と同じく、バンクーバーでもホームレス居住者がますます増加してきました。配給所では調理手段がない人のために食材を専門に置く屋外窓口を設けていて、サンドイッチ、果物、他のすぐに食べられるアイテムが手に入ります。配給所内で定型のフードボックスに食材を集める来訪者は、グレン・ヘスからも支援を得ています。彼は現役を退き「Glennism」を実践しています。

それはひとつの哲学であり、ほほ笑む理由がほとんどない人に、チョコレート等を配布し頬笑みを誘うことに焦点を当てているようです。「ホームレスの人を見かけても、彼らのこれまでが分かっているとは思わないでください。」ラリー・スミス(カトリーヌとは縁戚なし)は元歩兵隊大佐でした。退役以来バンクーバー市議会に関わりながらバンクーバーRCに所属し、配給所では理事会にも参加しています。彼は仲間である退役軍人に特別の興味を持っています。「膝と膝を交えながら接しています。」「どこに暮らしているか尋ねれば、それは車内や通りであったりします。

非常に注意深く見て、どのような服装かも確かめます。」配給所にはソックスや毛布の供給があるかもしれません。配給所でのボランティアで、さらに他のことに気づきました。「そこで多くの女性を玄関まで見送っています。」「通りに暮らす女性が、危険に晒されやすいことに不安を感じるのです。私や多くのボランティアにとって最もタフなことは、入ってくる小さな子供に会うことです。」彼は確固として言っています。「私たちのような国で、誰も空腹になるべきではないのです。」

バンクーバーRCメンバーが、数人FISH委員を務め、多くのメンバーも配給所で定期的に援助しています。「私たちのクラブは、ボランティア・プロジェクトの歴史を持っています」と、カトリーヌ・スミスは話します。「また、ここの全ボランティアはそこから少しずつ異なる何かを学んでいて、ボランティアが事業運営を継続することには重要な意義があるのです。」と、スザンナ・モーガンが、jk。彼女は23年間世界食糧銀行で勤め、オレゴン食糧銀行の理事になる前にサンフランシスコからアラスカ、ボストンへ出向しています。

その組織はバンクーバーのFISH配給所での食糧供給を支援していて、配給所はちょうどオレゴン州ポートランドからコロンビア川を横切った場所にあります。「ボランティアがなければ、食糧援助システムが崩壊してしまう。そのことに何ら疑いを持ちません。」国のいたるところでほとんどの配給所が、無給スタッフであることに気がついたからです。そしてロータリークラブはボランティアの主な供給源です。「イーストアンカレジRCはアラスカで最初の移動食糧配給所を始めました。」しかしボランティアを基本とするやり方は、強さと脆弱さを兼ね備えています。

「ボランテイア制度はすばらしいものです。しかし人々の生活が刻一刻変化するため、システムはくずれやすいのです。」「私たちは多くの運搬用ミルク缶を用意していて、こういったボランティアの経験は、人々の生活に意義を加えます。」さらにその生活がどのように変わるかを理解する手助けをします。「ボランティアをすれば、経済状態がいかにうつろいやすいものかが身に沁みます。」2015年テリー・チルドレス(当時オレゴン州レークオスウィーゴ・レイクRC会長)は、レイクリッジ中学校の8年生からメールを受け取りました。

その生徒は隣町の食物配給所でのボランティア後、レークオスウィーゴにはどこにもないことに気づき、最初のひとつを始めたいと思ったのでした。それは明白な考えではなかったかもしれません。ポートランド郊外は、オレゴンでは最も裕福な街であり、広々とした場所に家々があり高級レストランも何件もあります。「住民達はこう言いました。なぜレークオスウィーゴに配給所が必要なのって。」そう言うのは現在飢餓戦士オレゴンと称する運営団体を指揮するリンダ・マセスです。「しかし、誰でも問題を抱えています。」テリーRC会長はそのアイデアを調査し、コミュニティーが見かけに反しその必要性があると結論づけました。

中学校は小さな部屋を提供しました。その広さは550平方フィートで、配給所としてオレゴン食糧バンクが支援するには狭過ぎます。したがってフードドライブキャンペーンや寄付に頼らざるを得ませんでした。生徒が授業日に困惑しないように土曜日のみの開催として、週に10人程の訪問者や数家族を支援しています。弁護士であるロータリアンは配給所の非営利資格を整え、銀行家である別のメンバーは会計簿作成に従事しました。リンダの夫マルコムはレークオスウィーゴRCのメンバーであり、組織委員会に出て以来ずっと議事を管理運営しています。ロータリアン達は配給所委員会に参加し、土曜日のボランティアに定期的に参加しています。

そして訪問者が家族のために必要なフードボックスに食材を集める支援をしています。ロータリアンはフードドライブキャンペーンを運営し寄付を行うことで、地元農場からの毎週の生産物パッケージを申し込む資金につながっています。メンバーは毎週木曜日に生産物をピックアップするために車で出かけます。「必要となる全ての余剰食材を受け取り支援する為訪問するのです。」リンダはメンバーについてこう言っています。「彼らは常にそこにいます。」レークオスウィーゴは一見して富裕な街かもしれません。しかし居住者はどこにでもいる人々と同じ問題に直面しています。

仕事を失い、離婚し、医療上の危機にいる人がいます。ボランティア達はある訪問者を支援し、夫の癌治療およびその不幸な結果に手を差し伸べました。更に自閉症の18歳の娘が配給所へついに独力で来ることができた日に、格別の喜びを分かち合いました。ある土曜日には、地方の自家所有者が自らの木々から採取したりんごをケースに入れ到着しました。そしてその後間もなく、ひと組の親子がやって来ます。涙を浮かべた彼女はこう言いました。「ここに来る前にあなたがりんごを持っているように祈っていました。」そしてもう一人の寄贈者がフリースのブランケットを2箱寄付したので、配給所は彼女の娘にその1枚を与えることができたのです。

「母親が必要とした時、りんごと一枚の毛布が彼女を励ましたのです。」「非常に多くのニーズがあり、全てを先読みして処理はできません。それでもその役割の一部を担えることに感謝しているのです。」

 

デービッド・サラソーンはポートランド発信の『ザ オレゴニアン』のコラムニストです。「ルイスとクラークを待つ;副題 二百年祭と変わりつつある西洋」を含む3冊の本を出版しています。

 

翻訳 津坂 守英@名古屋城北RC


Rotarian9月号
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Rotarian9月号

 

私はどのようにして姉に会ったか

 

知らずにいた姉の存在は、新しい血族関係の可能性をもたらします。

 

サラ・ロング

ある朝、仕事前に電話するように兄からテキストメッセージを受け取りました。まずは、変わったことはないかと聞いてみると、「問題ないさ。」私を安心させながら、こう切り出したのです。「実は、祖先検索アカウントを取ったんだ。」「祖先って?」繰り返して聞いていました。私の記憶では、このDNA鑑定サービスは大勢の血縁者がお揃いのシャツを着て参加する、多世代親族パーテイを企画する人向けのものでした。

「妻が会員にしてくれたのさ。」兄はチューブの中に唾液を添え郵送し、先祖がヨーロッパ系で、しかも公立中学校時に概略的に描き残しておいた家系図と本質的に同じことを確認しました。結果はあっけないもので、「あなたの近くにいる家族」というタイトルのメッセージを受け取るまでその会員サイトのことは忘れていたのです。「そこで、だな。」彼は言いました。「我々に片方の親が同じ姉がいるらしい。」

その言葉を受け入ることは、腕を伸ばしたまま幻覚に彷徨う気分で、くずれ落ちる思いに耐えられませんでした。息が詰まって肺が胸にあることに改めて気付いた程です。最初に頭に浮かんだのは悪ふざけか詐欺ではないかということでした。しかしそうでなければ父の、それとも母の子供なの?その可能性がふと立ち上がりました。亡くなった父は私たちが子供の頃よく長期旅行に出たことを思い出したのです。父には秘密の家族がいたのではないか。そうでもないなら秘密諜報部員だったのか。

父が離れていた間、母は孤独で寂しかったはずです。兄はDNAと養子縁組書類に関して何か言ったようでした。私は驚きを抑えきれず彼の声が聞こえません。メッセージはいたずらではなかったのです。両親が出会う10年以上前に、異母姉(後にアンと呼ぶことになる)は生まれました。彼女は血のつながった家族を何年も捜していましたが、祖先検索サイトには国籍確認の為のみに入会したのです。ところが彼女のプロフィールに現れたのは兄。アンを妊娠した当時、その母は大学生でした。

そして1940年代に計画外妊娠した多くの若い女性と同じく、彼女は遠くに出されました。赤ん坊が生まれるまで別の場所に暮らし、その赤ん坊は地方の家族にもらわれたのです。養子縁組書類によれば、実の父親には妊娠のことが知らされませんでした。しかしながら生みの母は父親の記述を残していたのです。彼の兵役、大学専攻、兄弟、家族病歴に関する詳細は、父のものと一緒でした。アンは養女であることを若い時から知っていました。愛情に囲まれ幸せだったと幼年期を記述しています。

しかし養父母が亡くなった後、実の親について情報を追い始めました。その時には実の両親もまた亡くなっており、代りに私たち兄弟を見つけた訳です。私の直感は彼女と距離を置くことを訴えていました。父が亡くなって10年が過ぎても、いまだに喪失感は消えないままでしたから。初めは心に壁を立て懸け自分を守ろうとしました。父の記憶を分かち合うことで、私たち家族のきずなを薄める気がしたのです。私の母はまだ生きています。どのようにこの情報を扱ったらいいのでしょう。

別にいる夫の家族が生き続けていることを知って、母は喜ぶというのでしょうか。そうでなければ、混乱させ途方に暮れさせるのでは。父が結婚前に親密な関係を持っていたこと自体には、ショックを受けるとは思いません。恐らく父は子供のことを知っていました。母も知っていたはずです。動揺しつつも、この状況を無視することに決めました。しかし兄がDNA適合のコピーとアンの最初のメッセージを送ってきた時、再び心は揺れました。「私はあなたのお父さんが実の父親であると信じています。

彼についてあなたが喜んで分かち合えるものがあれば、それが何であっても感謝します。このことがお気に触れたならお詫びします。それ以上接触を好まないならば、あなたの求めを尊重します。」今まで彼女は何年も待ち続けてきました。これまでの履歴、趣味、子供達、ペットについても詳細に明かす一方、完全な拒絶の可能性をも受け入れたのです。勇気があり心やさしく現実的な態度に感銘を受けました。その後アンがしばらくの間この街にいて会いたがっている、という手紙を兄が送って来ました。

彼自身は国外にいるようでした。心の中では兄に連絡を取り合うようにしてほしかったのでしょうか。まずいやだと答えながらも、その後分かったと返す私がいました。ふたりは彼女が宿泊するホテルで会いました。即座に帰る必要があるかのように、車を出口すぐそばに置くよう駐車係に頼んだのです。日の光はガラスの回転ドアを煌めかせ、私はアトリウム風ロビーを横切って進みました。そこには会議の参加者で溢れています。事前にはアンと私は写真を交換していません。

しかし後から思いついたように、簡単な身体的特徴を知らせ合っていたのです。彼女を見つけられないかと不安でしたが、周りに注意を払っている女性を見つけました。あたかもトスされたボールを掴むように本能的に手を振り上げると、彼女がアンであることが分かりました。向こうも手を振り返したのです。彼女に向かって歩くことが超現実的に感じました。その後私たちは話し合いを始めます。でも、最初の数分間何をしゃべったか今でも思い出せません。

不安な気持ちのままハグすると、彼女は私の腕の中で震えているようでした。なるべく静かな片隅で、時系列的に話し始めました。私にとって、はっきりとした目的があります。あたかも事の真相を究明することが義務であるかのように。「父親はどこであなたの母上と出会ったのでしょう。」二人は異なる大学に通学していました。彼女が妊娠のことを父に伝えなかったのが真実なら、なぜ彼女が姿を消したか不思議に思わなかったのでしょうか。「父は彼女と連絡をとろうとしませんでしたか。」

「電子メールや携帯電話出現前では、足跡なしで他所に移動するほうが容易だったでしょうから。」と、アンは答えました。「私たちには恐らく分からないままでしょう。」当時の彼女の母親に感じる、守ってあげたいという思い、その行く末を心配する自分に驚きを隠せませんでした。私たちはその時取らざるを得なかった限定的選択に思いを馳せました。そして、子どもを手放し、隠れてその喪失感を味合うことにどんな思いだったことでしょう。アンは、質問のリストを持っていました。

彼女は数十年間これに関して考えてきたのです。一方私は何の準備もしていません。私たちは家族に関して互いにどう話していいか分かっていませんでした。私達双方の父の名を出すことさえも。私たちのどちらもまだ気楽に「私たちのパパ」とは言えませんでした。それは私たちが欠けていた共有すべき経験を意味しました。背の高さを示す刻み目のある共通の家の柱はありません。同じ腕の中で心安らかな時を分かち合っていません。私たちの小さな手は、同じ絵本を抱きしめたことがありませんでした。加えて彼女には共通の父親がいました。

善良な父親。私たちは異なる語彙を使おうとしました。実質的な父親。実の父。父親をファーストネームで呼ぼうとしても、共に自分の気持ちから余りにもかけ離れて、なじみ薄く感じたのです。会話は躓きながら時に気まずく、でもその後似たところを積み重ねることで共に元気づけられました。彼女の因習にとらわれない生き方は、私とほとんど同じでした。共に湖と海を愛しています。私たちは驚きを感じて、沈黙しあたかも霧で覆われた鏡の前にいるかのように互いを見つめ合いました。

彼女の顔つきが父の叔母や私自身に似ていることが分かったのです。数か月の間、ペンパルのように連絡し合い、家族の歴史について話し続けました。彼女に父親の写真を送ると、お返しに養子関係の母親の写真を送ってくれ、徐々に私たちのやり取りが始まったのです。その後アンと私は過去の記述をやめました。今も破裂した配水管、スマートフォンのセッティング、軽い自動車事故についてメールを送り合います。

だんだん彼女に伝えたいことを考え、彼女を笑わせるセンスを磨こうと思うようになりました。冬に入ると、私たちはデンマーク人のコンセプトであるほっこりするという意味のhyggeによって元気づけられることを知りました。また夏が近づくと、ほとんど知られていない町の湖畔の家の同じ物件リストを見ながら、それを買うことについて夢想しました。

私は彼女が好きです。彼女が私の姉であるからでなく、ますます広がる慈しみの心と尊敬の念が深くなるが故に。私には家族と見なす以上の友、友達と見なす以上の家族がいます。アンは友達と家族の両方の可能性を具現化しています。それは新しい血族関係です。彼女と父親は、万が一にも実際の結びつきがなかろうが私を魅了する同様の機知と輝きを共有しています。

しかも、それは違った形で鳴り響き、彼女を知ることが父にとって大きな喜びだったと確信しています。多くの人々に私たちの物語を伝えていません。祖先家系図を秘密にしておきました。そしてDNAの結果を受け取ってから、アカウントを閉鎖したのです。未だに更新を促すメールに受け取ります。そうすれば更に内幕話の多くを知ることはできるでしょう。いいえ、もう結構。意外な新事実は今のところもう十分なのです。

ほとんどの人と同じく、兄は血統に関する簡易な報告書を期待して家系を辿る旅に乗り出した訳です。驚くことではありますが、姉の発見は大部分が彼女の思いやりと敬意あるアプローチ故に、比較的穏やかに終始しました。対照的にある友人は、父の葬式で始めて3人の兄弟がいることを知りました。姉の発見によって見出されたことは、家族について知らなかったことに光を当てました。しかし、それは私がいつも手にしていた幸せをも思い出させたのです。物語。アルバム。

かつて第一次世界大戦中の若い兵士だった祖父からの手紙は、曾祖父母によって持ち続けられていました。その歴史は私たちをすべて繋ぐDNAのコイル状の鎖と同じく私の一部です。アンを見出すことは秘蔵の手紙の山を見つけることに似ていました。それでも行間に隠れた全てを知らなくとも気になりません。困難な状況と選択に直面した人へ共感できたことが、そこに関わっていると思えます。事実、少々の不確実さが残ってはいます。しかし何が人間であることを意味するかについて、今はずっと深く理解出来たと感じるのです。

 

サラ・ロングは米国中西部在住の作家でありペンネームです。

 

 

翻訳 津坂 守英@名古屋城北RC


Rotarian8月号
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Rotarian8月号

もうその曲はいいわ、パパ

そこで父親は椅子取りゲーム後の音楽ジャンルを変えます。

ジェフ・ルビー

娘が幼い頃、就寝時間のプレイリストには、モーツァルトやラフィ・ベサリアンはありませんでした。赤ん坊ハンナにとって幼児天才音楽教育サイト、ベービーアインシュタインは出番がありません。娘はトム・ウェイツのソードフィッシュトロンボーンズという世間では悪評高いぞっとされそうな曲を1983年版LPで聴いていました。

繰り返し、すべての夜で。あなたがソードフィッシュトロンボーンズの曲をよく知らないなら、それは基本的に気まぐれと不適合さが生息する地下世界から聞こえる40分間の無分別な物語です。発作的なワメキと囁きや唸りが、バスタブの中で荒っぽく演奏するトロンボーンとさびついたマリンバで表現されています。真夜中に質屋傍の下水溝からしみ出す蒸気のように。子供が有蓋貨車にただ乗りして暮らすようなペテン師になり下がることは望まないでしょう。

そうであれば、ソードフィッシュトロンボーンズは赤ん坊の託児所で聴くには全く最悪のアルバムかもしれません。「一体全体、ハンナは何を聞いているの。」妻は午前3時に授乳後、戻ってベッドに滑り込むと尋ねました。「音楽メディアのピッチフォークにあった1980年代11番目のベストアルバムだよ。」私は口ごもりつつ答え、寝返りを打って背中を向けました。これは気難し屋の落こぼれで新し好きに、子どもが生まれるとよく起きる状況です。

トム・ウェイツが発育上相応しいのかどうか微塵も気にしませんでした。というか、ねじ曲がった夢が成長過程の娘の脳内でどう元に戻るかは気にもならなかったのです。ただ分かっていたことがあります。生まれたての娘の脳内が、サイトKidz Bobや擬人化した恐竜が歌うBINGOでいっぱいになるのがいやだったのです。そう、娘はリアルな人生に関わる音楽を聞いたはずです。寂寥、あこがれ。

そこにはミッキーのビッグマウスフォーティズを飲み、小人とビリヤードをする上陸許可中の水夫達といった情景が相応しいのです。私は閉じ込もりの音楽オタクでした。問題だらけの若き時代の多くを、汗にまみれた音楽会場で立ったまま過ごしました。その場にふさわしいTシャツとスニーカー姿で、手にはビールを掲げて。

そして足を踏み鳴しつつも、全て安全で醒めた距離を保っていました。たとえ心臓が激しく鼓動して胸を押し上げるように感じたとしても。家でのプライバシーな空間でのみ、音楽への純粋な愛を示すことができたのです。しかし、音量を下げる以外音楽に見解を持たない女性と結婚し、そこでハンナの中に一緒に情熱を共有できる可能性と出会えることに夢中になったのです。彼女はまだおまるを使うように躾けられていなかったし、歩行もあやしいものでしたが、その夢はかろうじて私の中で育まれました。

娘が4歳になるまで、いつも食事中にジョニー・キャッシュ、ヨ・ラ・テンゴ、スティービー・ワンダー(もちろん1972-76年頃の)を聞かせました。5歳になると、彼女はキャッシュと共に歌っていました。彼女がチャイルドシートからボブ・ディランのオリジナル1963年バージョン『くよくよするなよ』をリクエストした日に、自分の役割が果たせたと感じたものです。ただ当然かもしれませんが、その日常はすべて崩れ去る日がきました。

ハンナが6歳の時、風刺オンラインニュース,オニオンで、ある記事を偶然見つけたからです。その見出しは、「同世代の子供達との接触を全く無くして、メディアで娘を育てることがクールだと思っているパパ。」付いている写真は、テーラー・スウィフトのコンサートならずっと楽しいだろうにという印象を与えながら、ジャケットTalking Headsのレコードを娘が引っ張り出すのを父親が誇らしげに見つめる場面でした。

写真の父親は私のそのままに見え、少女はハンナそっくりで、あごにパンチといった出来事でした。娘の社会的、精神的成長の最も大事な時に、私は全て関わってきたつもりです。それを俗物根性と呼んでも、軽薄な男によくあるエゴの暴走と呼んでもかまいません。私はその両方に当てはまりました。何年も自分、妻、話を聞いてくれる誰をも欺いていたのです。

「古典的音楽」と呼ばれるものに鋭く博識で流暢となる人間を育て上げるのだと。結局望んだのは、ポップカルチャー関連の完璧なフランケンシュタイン的怪物を創ることだったかもしれません。小さなそっくりの私、でもずっとましで粋な人間を。私の行動には可能性のある生物学的説明が存在します。「始めから、私たちは子供を誘導して自分の模倣をさせ、人生で最も意味深い賛辞を受けることを望みます。

つまり親の価値観に従って生きるように子供が選択することを。」こう述べているのは『生命の木から遠く離れて』の著者アンドリュー・ソロモンです。その著書は2012年に出版され、障害等普通とは異なる子供に対応する家族について記されています。ソロモンはその将来に切り込んでいます。「私たちの多くは、自分が両親とどれくらい異なって成功したかに誇りを持ちますが、子供達が自分とどれくらい異なっているかには際限なく悲しむのです。」

このことが次のことを明確にするかもしれません。父がいつもハミングしていたバッハ・カンタータからできるだけ速く遠ざかることを望んで30年、私は娘にラモーンズのアルバムを無理やり聞かせていました。表面上、これは完全に理にかなっています。結局子育てとは何でしょう。あなたの時間に生き続ける子孫に価値観を教え込む試みは、この世界で成功するでしょうか。不老不死に対する絶望的な試みと同じく、 究極の独善ではないでしょうか。与えるべき道徳律なくして、何の価値があるでしょう。

人生の最も基本的な原則を経験したはずなのに(優しくあれ、熱心に働け、人の役に立て)、伝えるべきことが殆どそのままだったことが明らかになりました。子供に残した知識はわずかなものでした。価値観はそのひとつです。幼稚園児がレノンとマッカートニーの歌の違いを知っているかを確かめることと、どれがその曲かを求めることとは全く別の次元の話です。ずっと悪いことに、娘へのインプットの多くは、ただクールになることに終始していたように思えました。

中年世代に何とか忘れようとしたことであり、それはティーンエージャー時代の私にとって息が詰まるような絶えず続く重荷でした。したがって、私は今までの姿勢をやめました。あるいは、そう試みました。そう、ハンナが車に乗った時マービン・ゲイのCDが偶然かかっていたり、オフィスに来た時ターンテーブルにエルヴィス・コステロのCDが載っているかもしれません。もし誰が演奏していたか尋ねれば教える程度はしましたが、歌に拒絶したり、もっと悪いことに無関心を示せば、奇妙な程傷ついたと感じました。

彼女が自らの道を行き、必然的に自分の興味を掘り下げた時、心は乱れる思いだったのです。私が娘から離れなければならないからではなく、私自身のものでない影響によって成長していくことに動揺したのです。私が二流品と認める対象に娘が影響されることに。ハンナは今や14歳です。私たちは共に随分成長してきました。娘は聡明で、不安げで、皮肉やで、アグレッシブな曲を作曲し、シカゴ子供聖歌隊ではメゾソプラノを任されています。

彼女にはよい友達がいて分別があり、常に周りを探索しています。その間私は娘に関わらず、その一方彼女は風変わりな遊びを見つけました。Netflixでへこたれないキミー・シュミットのドラマを見る。ギリシャ神話の果てしない小話を読む。オンラインの絵コンテ映像を楽しむ。それは知りもしませんでしたが、無名のポーランドの芸術家によってなされたものです。

何にしても娘は私とそれらを全部共有することを願っています。昨年9月私は娘を彼女にとって最初のコンサートへ連れて行くことになりました。それはドディー・クラークのコンサート。英国生まれの女性歌手で、うずくような傷つきやすさが、風変わりな十代の少女に幾分の聡明さを醸し出させていました。それまでハンナがクラークの180万人のユーチューブのフォロワーについて話すのを聞いていました。

当然疑わしく思っていましたが、娘が進んで一緒に招待してくれたのです。つけ加えれば、行くのに車が必要でしたから。でもコンサートは私を圧倒しました。クラークの軽快なパフォーマンスはひりひりと、いとしく感じました。あらゆることを叙情的に伝えながらも、皮肉を交えず人生を肯定的に捉えたメッセージは、私が忘れていたものでした。社会的不安?全く正常です。誰も常にあなたを愛さないだろうと不安?それもOKです。

性的に区別がつかない?関連するクラブに加わってください。聴衆は若く、熱狂的で、偏見のないすべての年代の少女および少年達でした。姿かたち、サイズ、肌の色も違い、思想方向性も様々なようです。それぞれ彼らは好みに従った服を着て、歌っていました。笑い叫び、曲に没頭していたのです。昔の私が誰かと一緒に見つめることが無かった形で。ハンナはずっとニコニコし、私も大声で叫んでいました。私にはできない方法で14歳の娘は素の自分に心地よい生き方を学んでいたのです。

現在ハンナの大事なプレイリストはローファイポップからクロアチアの合唱曲まで全てを網羅し、そのミックスにはクィーンとビートルズもかろうじて入っています。「いつでもパパが好きな歌を薦めていいよ。」と、娘が最近そう言いました。「パパの音楽テイストが好きだから。」これは、成長過程で子どもが親にそう言ってくれた最初の出来事と記すべきでしょう。結局のところ、私だって娘の音楽テイストが好きなのです。

 

3月号では、ジェフ・ルビーは息子マックスがいかに自分の名前を獲得したかを説明しています。彼は、シカゴマガジン誌の食事批評についてのチーフ寄稿家です。

翻訳 津坂 守英@名古屋城北RC


Rotarian7月号
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Rotarian7月号

望ましい感謝の仕方

『No problem』の代わりに『You're welcome』を期待しすぎてはいませんか

 

デービッド・サラソーン

 

 

お店で打ち解けたやり取りの後、カフェラッテを受取れば『ありがとう』と礼儀正しく言うことでしょう。それは母親の教えや映画のセリフによくあるパターンに従っているのです。対する店員はにこやかに笑いながら、丁寧にパンを皿に盛ってこう答えます。『No problem』さて、こんな場合問題があるとは誰も言いません。謝意の表現に対する反応として、いかに略式で儀式主義だろうが、以前期待された『You're welcome』は今や上品なお辞儀くらい流行遅れになっています。

代わりにそのサービスが何も面倒なことはないですよ、と言う快さを受け取ります。そして面倒をかけたのではというこちら側の懸念を大いに和らげるメッセージでもあります。おやつに大量のチョコレートチップクッキーを買えば、レジ係にやっかいな手間をかけるのではと気にしないではいられません。『No problem』はその不安を和らげ、互いのやり取りも穏やかにします。伝統的な『You're welcome』は、そのサービスが思いやり、気品、当意即妙さに優れていることを知らせていました。

でも、祖父母の時代にはあっても今やホテル・コンセルジュにのみ使われるばかりです。対照的に『No problem』はやり取りを簡単に終わらせ、相手は感謝を示します。一方『You're welcome』は『あなたの思いのままに』という姿勢が表われています。そこからずっと離れた雰囲気が『No problem』にあります。格別内容のない応対は、全てを軽く評価します。 そしてもし問題があればそういった挨拶もない訳です。

『No problem』が単にスペイン語の「De nada」あるいはフランス語の「De rien」の等価であると論じるかもしれません。それは「何も」に対する言葉をベースに作られたフレーズであり、『ありがとう』に対する丁重な応答です。しかし、そういったヨーロッパ大陸的反応は、そこに伴った努力は調達された対象程でもないと言うものです。『いいえ、私が渡したヒマラヤの山頂花は御礼を言うに及ぶ程の価値などありません。』またフランス人にとって、謝意に対する公式の反応は「De rien」ではなく「Je vous en prie」かもしれません。

「御礼などとんでもないことでございます。」と言う意味で、その業務に関わる相手を1930年代映画のように感じさせます。フランス人は更に丁寧な「Avec plaisir」の感謝に反応するかもしれません。あなたがベイグルを焼いてくれたことを感謝し、その相手が『喜んで』と答えれば、礼儀正しさの世間的レベルを超えたものになります。『You're welcome』は、感謝されることを前提にした上品な応答です。

ウィル・フェレルのジョージ・W.ブッシュに関するワンマン・ブロードウェー・ショーは、タイトル『You're welcome、America』でその全テーマを伝えました。『You're welcome』はおじぎするおもちゃのカバみたいに、のけぞる程丁寧な表現というだけではありません。そのフレーズはおばあちゃんのカリフラワー鍋料理をうまくかわす方法として3歳の子に舌足らずに話すように使われても、公式晩餐会を除き今はほとんど使われません。囚われの身から自由になる気分に近いのは『No, thank you』でしょう。今はまず感謝の気持が見えない自己満足である『I'm good』に置き換えられました。

『No, thank you』は感謝の表現の雰囲気で使われ、時にやっかいな場合にもしばしば微笑を伴います。対照的に『I'm good』は時に緊張感を生じます。おかわりのミートローフをと言われた答えとして、『I'm good』は否定するだけでなく嘲笑的にすら見えるからです。『おなか一杯なんだ』でおかわりを断われば、申し出る人に既にある程度の価値を提供してくれたと認めています。『I'm good』で答えることは、そのもてなしをやり過ごし、図に乗っておかわりはしないという気持ちを伝えています。『I'm good』は、実際申し出に対する答えではありません。

誰も尋ねていない質問に対する答えです。心地良さについて実際聞かれた場合、『I'm good』は恐らくそれほど高慢ではないのでしょう。しかしもう少し平豆シチューをいかがと言う反応として、『I'm good』はその申し出に相手は気分が下がります。そのフレーズの額面通りの意味に反して、余り良いものではありません。『I'm good』と言った後その発言が適切ではないとしても、すまなかったとは誰も言いそうにないのです。ありそうなのは、後悔の程度を反映して、しぶしぶ『My bad』と言うことでしょう。全ての宗教は贖罪の表現の上に立つものであり、相容れない哲学的な方向に贖罪者を送り出す難題の上に構築されました。

しかしながらほとんどその全てが、悔恨に2つ以上の単語を必要とします。『My bad』は謝罪のコインの裏表であり、もし何か言ってほしければ、そうしましょうという何気ない譲歩です。それは条件付きの謝罪に沿っています。次のように。「気にさわったらごめんなさい。」条件付きの謝罪のように『My bad』は、真実の後悔をそれほど示していません。謝罪の対象が大騒ぎし過ぎではという意味合いが含まれます。

『My bad』は実際には謝罪する気のない謝罪としてなら申し分ありません。例えば『Sorry not sorry』(Tシャツに記されたり、デミ・ロバートの歌にもあります。)のように。ただ相手がごめんなさいと言ってほしいから言うだけで、心の底ではその気がないのです。確かに、多くの謝罪は自責の感覚から誠意を示せるかもしれませんが、全ての表現が懺悔服と絶食を求めている訳ではありません。

(他方涙ぐむ程の謝罪は、フライの代わりにマッシュポテトを持って来た給仕に求めるべきものです。) 『ごめんなさいが十分ではない場合』という本の中で、ゲーリー・チャップマンとジェニファー・トマスは、謝罪の種類を分析しています。例えば、後悔を示す、責任を受け入れる、賠償する、振る舞いを変える、許しを求める等。『My bad』をふたつの単語以上に解釈するのは難しいといえます。ただその言葉通りに到達するのみです。償うこと、または振る舞いを変えると誓約するどころか、『My bad』はしぶしぶの歩み寄りと自己満足感の間にあります。

オンライン辞書サイトUrban Dictionaryが登録しているように『My bad』は、「誤りを認める方法、実際に謝罪する気もなくその誤りを謝罪する方法」とあります。実際に謝罪することが不快な経験である為に。その最後のコメントは謝る人の誠意を余りにも気軽に片付けているかもしれません。まさに『My bad』です。1つ言えることがあります。『My bad』はバスケットボールの選手の間で始まったことかもしれません。

彼らはひどいパスをしたことを認めるためにピックアップゲームでその言葉を使います。これにはふさわしく思えます。『My bad』は、そのレベルで失敗した行為をカバーするためにはちょうど良い言葉なのです。あるいは、『2017年のメッツ対ナショナルズの対戦は激しい接戦となる』とニューヨークポストスポーツ記者が誤った予測をわびる為には良い言葉でしょう。(実際そうではなかったのですから。) 大きな間違いがなければ、その言葉はサウナの小タオルより少ない償いの役目を持ちます。こういった最低限に謝罪を認めるやり方は、会話の中心が実際のやりとりではなく携帯電話の中での不平に対する応対としては望ましいかもしれません。

しかし礼儀に関する普遍的なこのフレーズは、コミュニケーションを乱す根源的語気を含みます。伝統的な洗練された表現は、すべて少なくとも必ず第二人称形を伴います。『You're welcome』、『No, thank you』は、現にyouに言及しています。『I'm sorry』さえ、受け取る人を暗示しています。祈りのように、謝罪は誰かが聞いていると仮定している訳です。

しかし『No problem』、『I'm good』、『My bad』は自己確認に焦点を合わせあやふやな別の言葉で済ませて、その結果礼儀が自己肯定に押しのけられています。私は丁寧さに関する問題を掲げました。それは政治に関する問題と同じです。私たちはもはや実際に心通う話をしていません。You're welcome.

 

デービッド・サラソーンはポートランド州オレゴン住民向けに長年コラムを書いており、ニューヨークタイムズとワシントンポストに寄稿しています。『ルイスとクラークの出現を待つ;200年祭と変化していく西洋』を含む3冊の本を出版しました。

 

翻訳  津坂 守英@名古屋城北RC


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